大川内山
[Wikipedia|▼Menu]
色絵芙蓉菊文皿 鍋島焼 窯元全景 大川内山 鍋島焼 窯元 色絵宝尽文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館 染付壺文皿 ロサンジェルス・カウンティ美術館 色絵葵文皿 東京国立博物館 色絵紫陽花文皿 松岡美術館 色絵岩牡丹文皿 松岡美術館 色絵花筏図皿 東京国立博物館

鍋島焼(なべしまやき)は、17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩鍋島藩)において藩直営ので製造された高級磁器である。佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」または単に「鍋島」と呼んだ(伊万里焼の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼称する場合もある)。鍋島焼の伝統は1871年明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。
目次

1 歴史

1.1 前史

1.2 藩窯の創始

1.3 鍋島光茂の指示書

1.4 藩窯の組織

1.5 近代以降の鍋島


2 製品の特色

2.1 器種

2.2 作風・技法


3 代表作

4 鍋島焼窯元町並み

5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

歴史
前史

肥前国の有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本の代表的な磁器生産地として知られる。陶磁器生産の先進地である中国では代末期には磁器が創始され、代以降は景徳鎮を中心にさまざまな磁器が生産されていたが、日本では長らく陶器や無釉の焼き締め陶が主流であり、磁器の生産が始まったのはようやく17世紀初頭のことであった。文禄・慶長の役に際し、豊臣秀吉や諸大名に当時の朝鮮から多数の陶工が日本(九州)へ同行し、彼らの技術がもとになって近世初期、九州各地に陶磁器産地が生まれた。高取焼上野焼(あがのやき)、唐津焼などはいずれも朝鮮から渡来した陶工によって創始されたと伝えている。有田および周辺地域の窯で製造され、伊万里の港から出荷された伊万里焼も同様に朝鮮渡来の陶工の伝えた技術をもとに創始された。伝承では1616年(元和元年)、朝鮮出身の陶工・李参平が有田の泉山で白磁鉱を発見し、天狗谷窯で磁器の生産が行われるようになったという。窯跡の発掘調査の結果からは、最初に磁器が焼かれたのは天狗谷窯ではなく有田西部の窯であったことが明らかになっているが、いずれにしても、この時期(1610年代)、肥前国において日本の磁器生産が始まったということは定説となっている。
藩窯の創始

こうして生産が始まった伊万里焼とは別に、藩窯製品としての「鍋島焼」が作り始められた正確な時期や事情については、藩の公式の記録が残っておらず、判然としない。伝承によれば鍋島焼は1628年寛永5年)、有田の岩谷川内(いわやがわち)で創始されたとされ、1661年頃(寛文初年)、有田の南川原(なんがわら)に窯を移し、さらに1675年延宝3年)、有田と伊万里の中間の山中にある大川内山(おおかわちやま)に移ったという。大正時代東京日々新聞の記者であった大宅経三は佐賀藩の御道具山役(藩窯の主任)の地位にあった副田(そえだ)家の過去帳を調べ、その調査結果を著書『肥前陶窯の新研究』(1921年)に発表している。同書によれば、鍋島焼は素性不明の浪人・高原五郎七(五郎八とも)が有田の岩谷川内(いわやがわち)で青磁を焼造し、佐賀藩の御用を務めたのが起源であるという。この五郎七は、秀吉の家来とも朝鮮から渡来の工人ともいわれる半ば伝説上の人物で、藩のキリシタン取締りを避けて出奔してしまったと伝える。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef