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大嶽部屋(おおたけべや)は、日本相撲協会所属で二所ノ関一門の相撲部屋。ここでは、前身の大鵬部屋についても記す。 二所ノ関部屋(元大関・佐賀ノ花)所属の横綱・大鵬が1969年(昭和44年)5月場所に史上初となる30回目の優勝を達成。この功績を讃えて同年9月場所初日に日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。大鵬は1971年(昭和46年)5月場所限りで引退し、一代年寄・大鵬を襲名。同年12月に十数名の内弟子と花籠部屋所属の12代大嶽[注釈 1](元前頭・花光)を引き連れて二所ノ関部屋から分家独立して大鵬部屋(たいほうべや)を創設した。創設の際に大鵬は、当時の金額で2500万円(当時の大卒初任給は47200円であった)の巨額を投じて新たな稽古場を用意した[1]。大鵬の独立に関して、そのまま部屋を継がせたいと思っていた二所ノ関は快く思っていなかったが、大鵬の後援者の説得によって二所ノ関は納得した旨を、大鵬は後に語っていた[2]。一方で、大鵬が引退間際であった当時の協会執行部は武蔵川理事長を筆頭に、事業部長は引退したばかりの娘婿の出羽海理事(元横綱・佐田の山)、審判部長は春日野理事(元横綱・栃錦)と、出羽海一門一強の感があり、もし大鵬が二所ノ関部屋を継いだらその流れが変わってしまうのではないかと危惧した出羽海一門が、そうならないように大鵬を独立させようと大鵬に一代年寄を認めたとする見方もあった[2]。 創設当時は「大横綱・大鵬」のネームバリューもあり入門希望者が非常に多く、所属力士が50人の大部屋となった[2]。稽古場掲げた掲額に大鵬が現役時代にもサインに書き添えてきた『忍』の一文字があった[1]。1977年(昭和52年)に大鵬が脳梗塞で倒れて以降、一時の勢力は衰えたが、関脇・巨砲や前頭2枚目・嗣子鵬らが関取に昇進し、多数の個性派力士を輩出した。 12代大嶽改め15代放駒(元前頭・花光[注釈 2])が1975年5月場所をもって廃業して以降、部屋付きの親方が不在となっていたが、病床に伏した大鵬一人での力士指導が困難となり同じ二所ノ関一門に所属する13代大嶽(元前頭・若ノ海)、 7代西岩(元前頭・大文字)らが大鵬部屋に移籍し、大鵬の補佐役を務めた。 1992年(平成4年)には、12代阿武松(元関脇・益荒雄)が師匠・17代押尾川(元大関・大麒麟)と押尾川部屋からの分家・独立で揉め、事実上破門された。そこで大鵬は阿武松に助け舟を出し、大鵬部屋に迎え入れ独立に協力。1994年に阿武松部屋を創設するまで在籍した[注釈 3]。
歴史
大鵬部屋時代