大岡 昇平
(おおおか しょうへい)
1963年、日生劇場のベルリン・ドイツ・オペラの来日公演に来場した大岡昇平
誕生1909年3月6日
日本・東京府東京市牛込区
(現:東京都新宿区)
死没 (1988-12-25) 1988年12月25日(79歳没)
日本・東京都文京区本郷
墓地多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴京都帝国大学文学部仏文科卒業
活動期間1949年 - 1988年
ジャンル小説
文芸評論
主題日本史
太平洋戦争
文学活動第二次戦後派
代表作『俘虜記』(1948年)
『武蔵野夫人』(1950年)
『野火』(1952年)
『花影』(1961年)
『レイテ戦記』(1971年)
『中原中也』(1974年、評伝)
『事件』(1977年)
『小説家 夏目漱石』(1988年、評論)
主な受賞歴横光利一賞
大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、日本の小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。
東京牛込に生まれた。父は相場師で、社会的身分の変動が激しく、それが自我の目覚めを早熟にしたという。戦前はスタンダールを研究した。フィリピンのミンドロ島での俘虜経験をもとにした『俘虜記』(1948年)で作家の地位を確立。『武蔵野夫人』(1950年)などの恋愛小説の秀作も書くが、その目は一貫して戦争に向けられていた。戦記文学『レイテ戦記』『野火』が代表作である。1972年に日本芸術院会員に推されたが、俘虜の経験を理由に辞退した。
経歴1929年、20歳頃の大岡
1909年(明治42年)3月6日、 東京市牛込区(現:新宿区)新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた[1][2]。父貞三郎は和歌山市近郊の農家の三男で、昇平の生まれる前年上京して、兜町で株式仲買店に勤め、つるとの間には女児(大岡の5歳上の姉に当たる)がいた[1][3][4][5]。一家には後に弟が2人生まれた[5]。父の仕事の関係で家庭の経済状況には浮き沈みがあり、1912年(明治45年)春に麻布区笄町(現:港区南青山)に転居し、その後も数回渋谷近辺で転居を繰り返した[2][3][4]。
大岡は読書が好きで、8歳ころから「立川文庫」や「日本少年」などを愛読していた[4]。文学の道を歩んだのは従兄大岡洋吉の勧めがきっかけであり、1919年(大正8年)、「赤い鳥」に童謡『赤リボン』を投稿して入選を果たし、同年7月号に掲載された[2][4][5][6][7]。北原白秋は『赤リボン』に対して「音楽的で面白い」という選評を寄せている[5]。その後の大岡は熱心な投稿者となった[7]。10歳ごろの大岡は原因不明の熱がもとで入院し、病床で雑誌や本を乱読したという[4]。
1921年(大正10年)4月、府立一中受験に失敗した[4]。青山学院中学部に入学、キリスト教の感化を受け、将来は牧師になろうと決意していた[2][4][8]。秋、母・つるが芸妓だったことを知った[9]。大岡の信仰心は、『新旧合本聖書』購入をめぐって父と対立したことや夏目漱石に惹かれたことで薄らいでいった[4]。その後の大岡は、芥川龍之介やゲーテなどの文学や西田幾多郎の哲学書、マルクスなどの著書を読むようになった[4]。
1925年(大正14年)12月に成城第二中学校4年に編入[2][6]。富永次郎と友人になり、その兄・太郎(同年、24歳で病死)[4]の作品を知った[2][4][10]。同級に古谷綱武、安原喜弘、加藤英倫らがいた。また、山口二矢の実父である山口晋平も同級である[11]。1926年(大正15年・昭和元年)4月、成城中学校が7年制の成城高等学校となったため、高等科文科乙類に進学[2][6]。