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出典検索?: "大山" 神奈川県
大山
渋沢丘陵から見た秦野盆地と大山
標高1,252 m
所在地神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分27秒 東経139度13分52秒 / 北緯35.44083度 東経139.23111度 / 35.44083; 139.23111座標: 北緯35度26分27秒 東経139度13分52秒 / 北緯35.44083度 東経139.23111度 / 35.44083; 139.23111
山系丹沢山地
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三ノ塔付近から望む秋の大山
大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252 mの山である。丹沢山などの丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、神奈川県有数の観光地のひとつである。日本三百名山や関東百名山のひとつでもある。 大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。「大山」の名称の由来は不詳だが、明治以降は山頂に大山祇神を祀ったためと言われるようになった。大山祇神は江戸時代末までは「石尊(大)権現」と呼ばれていた。大山の山頂には巨大な岩石を御神体(磐座)として祀った阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。また、大山は別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。大山の地形図。山頂は中央上大山阿夫利神社 大山々頂奥の院 江戸時代の中ごろ(18世紀後半)から、大山御師(明治以降は先導師)の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行った。各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなった。 大山では、天狗信仰も盛んであり、阿夫利神社本社(上社)が石尊権現社(大山寺本宮)だった江戸時代までは、山頂奥社が「大天狗社」、山頂前社は「小天狗社」だった。民俗学研究家の知切光歳は、大山の天狗は日本の八天狗に数えられた大山伯耆坊であるという説を唱えている[1]。同じく八天狗の香川県の白峰の天狗の名前が「相模坊」であることや、四十八天狗に大山伯耆坊の代わりに伯耆大山清光坊が入っていることから、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、元は伯耆大山の天狗である伯耆坊が、相模大山に移ったとしている[1]。また、現地で会った古老から大山寺にかつて伯耆坊を祀った堂宇があったことを聴いたり、山中で伯耆坊の名が書かれたその堂宇が朽ちかけて転がっているのを発見したとも述べている[1]。ただし、この伯耆坊移住説は国文学者の久留島元や妖怪研究家の毛利恵太らによって疑問が呈されている[2]。相模大山の天狗には元々名前が無く、伯耆坊ではないというのである[2]。白峰相模坊の名前の由来も、『保元物語』に登場し崇徳上皇に味方した相模阿闍梨勝尊ではないかという指摘がある[2]。また、地域伝承等を元に書かれた『相模大山と古川柳』の著者である根本行道も、相模大山山頂の大天狗社、小天狗社の天狗と伯耆坊は別だろうと明言している[2]。久留島は、仮に幕末から近代にかけて相模大山において大山伯耆坊を祀った天狗信仰が存在したとしても、表記に掛けて八天狗を持ち出した新しい信仰と考えるしかないと述べている[2]。 現代においては、日本経済新聞がYAMAPを使用して集計した「2023年に登頂回数が多かった山」ランキングで全国9位を記録する登山者に人気の山でもある[3]。 大山信仰が始まった時期は不明だが、発掘により、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されており、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定される。ただし、縄文土器等については、発掘担当代表者が江戸時代初めに持ち込まれたものと断定している[4]。 『万葉集』の東歌で、大山は「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と詠われた。 10世紀前期の『延喜式』神名帳には、相模国十三座の一つとして、「阿夫利神社」(アフリノカミノヤシロ)の記載があり、神名帳の原本である神祇官の台帳が天平年間の完成とされることから、8世紀前半に阿夫利神社が創建されたとすることもできる。つまり、当時の祭神名が「アフリノカミ」で[5]、古墳時代以降の山岳信仰で大山そのものへの広域の信仰によるものと考えられる。古代の仏教的山岳修行者が清浄な山内に修行場所を開拓するに従い山頂の磐座が「石尊権現」として祀られるようになったと考えられる。大山で大山祇神が主祭神となったのは明治以降の近代「阿夫利神社」(アフリジンジャ)が成立してからである[6]。 古代に不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、大山山頂の磐座への「石尊権現」信仰と大山全体を不動明王の霊場とする信仰とが一体化していったとされる。なお、『續群書類從』第27輯下釋家部の『大山寺縁起(真名本)』(内閣文庫本ほかでは一般に『大山縁起』)には、天平勝宝7歳(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正が自刻の木造不動明王像を本尊に大山寺を開創したとの記載がある。大山寺は、聖武天皇により国家安穏を祈願する勅願寺とされ、天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる。元慶2年(878年)の大地震と大火により大山寺は焼失したが、元慶8年(884年)安然が再興したなどの伝承から、顕密系山岳寺院として栄えていったと考えられる。 平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。
概要
歴史
平安時代まで