大山綱昌_(薩摩藩士)
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 凡例大山 綱昌
時代江戸時代末期
生誕不詳
死没安政3年10月5日1856年11月2日
改名西郷小兵衛→大山綱昌
別名通称:彦八
墓所郡元墓地
幕府江戸幕府
薩摩藩
氏族西郷氏→大山氏
父母父:西郷隆充、母:四本氏
養父:大山綱毅
兄弟吉兵衛、綱昌、他
妻競子(大山綱毅の長女)
子成美、国子、誠之助
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大山 綱昌(おおやま つなまさ)は、江戸時代末期の薩摩藩鹿児島城下士。大山家に養子入りする前は西郷 小兵衛と称す。大山巌の父。西郷隆盛従道兄弟の叔父にあたる。
略歴

薩摩藩鹿児島城下で誕生する。文化11年(1814年)8月28日に、実兄の西郷九郎(のちの西郷吉兵衛)とともに藩主・島津斉興に初御目見する。天保5年(1834年)8月20日、大山綱毅が江戸芝(現在の東京都)の薩摩藩邸で病死する。翌天保6年(1835年)6月19日、綱毅の婿養子となり、諱を綱昌、通称を彦八に改め、大山家の家督を相続する。天保13年(1842年)10月10日、次男の岩次郎(後の大山巌)が誕生する。安政3年(1856年)10月5日、鹿児島城下で死去した。

菩提寺曹洞宗松原山南林寺(明治初期に廃仏毀釈で廃寺)。墓所は南林寺墓地。のち大正年間に郡元墓地に改葬。
人物

養父は一代小番まで進んだが、「綱昌は出世の道を捨てて、生涯を砲術研究にゆだねる」という。ただし、研究していた砲術の流派や砲術師範になったかは不明。
家格は御小姓与。家督は大山彦八成美が継ぐ。

とにかく砲術が好きだったらしく、安政3年の臨終の際、家人に「余の命日には、何等の供物は要しない。唯、墓前に煙硝を焚いて呉れればよい。」と遺言したという。家人は綱昌の墓碑に鉄砲の圖を刻んだという。

宅地

「鹿児島城下絵図散歩」では、現在の鹿児島市加治屋町4番地の東に大山彦八宅地と宅地の添え地があった。広さは天保13年当時、宅地と添え地あわせて368ほどで、宅地は186坪、添え地は182坪。(現在、宅地は実践会館になり、添え地のほうに大山巌誕生碑あり)。「元帥公爵 大山巌」での、元薩摩藩士で加治屋町出身である埼玉県知事吉田清英の談話で「大山さん(大山彦八家)の家は(加治屋町の下級城下士の)貧乏屋敷の中では少し広いほうだった」といっていた。なお、天保13年の、実家の西郷竜右衛門宅地(現在の加治屋町5番地、西郷隆盛誕生碑あり)は259坪、東郷吉左衛門(東郷平八郎の父)宅地(現在の加治屋町10番地、鹿児島中央高校の敷地内)は267坪(なお、番地は2003年現在)。
家族・親族

父:
西郷隆充

母:薩摩藩日置郡日置郷(現在の鹿児島県日置市日吉町郷士の娘四本氏。実兄は西郷吉兵衛

妻:養父・大山綱毅長女の競子(文久2年(1862年)4月24日死去。菩提寺墓所は夫と同じ)

実子:3男1女

大山成美(明治9年(1876年)2月病没、享年42。妻は西郷隆盛の妹・安)

国子(薩摩藩士有馬糺右衛門の妻、西郷小兵衛妻の母)

大山巌

大山誠之助(妻は西郷隆盛の娘・菊草


参考文献

尾野実信「元帥公爵 大山巌」 鹿児島県立図書館

宮下満郎「西郷家系図の紹介」(「敬天愛人」第23刷、西郷南州顕彰会著)、鹿児島県立図書館蔵

塩満郁夫、友野春久編『鹿児島城下絵図散歩』高城書房、2004年12月1日初版


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