この項目では、愛媛県今治市(大三島)にある神社について説明しています。他の大山祇神社については「大山祇神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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大山祇神社
拝殿(重要文化財)
所在地愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度14分52.4秒 東経133度0分20.9秒 / 北緯34.247889度 東経133.005806度 / 34.247889; 133.005806
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本総鎮守とも称される。
全国にある大山積神を祭る神社の総本社である[1]。主祭神の大山積神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。 瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。 大山積神を祭る神社の総本社とされ[1]、三島神社や大山祇神社として全国に勧請されている。山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。 境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割がこの神社に集まっており、甲冑の保存は全国一である[2]。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(2014年現在)を有し、これらは紫陽殿と国宝館に収納・一般公開されている。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石、鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されている。 近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。 古代には大山積神社の名で記録に現れるが、一般には三島あるいは御島から、大三島大明神や三島社、あるいは単に大三島と呼ばれた。明治時代に入り社名を大山祇神社と定めた。ただし、祭神の表記は大山積神で、鳥居に掛かっている扁額も大山積神社となっている。 なお、戦前の国幣大社は戦後になって大社を称することが相次いだが、大山祇神社は旧国幣大社の中で唯一神社名を大社としていない。 祭神は次の1柱。 大山祇神社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記された[原 1]ように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。 境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており[3]、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。 文献では、古く『続日本紀』天平神護2年(766年)条において、「大山積神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒においても、当時の「大山積神」には神戸として伊与国から5戸が充てられ、それは天平神護2年5月3日の符によると記されている。 その後の国史では、承和4年(837年)に名神に預かり、貞観8年(866年)に正三位、貞観12年(870年)に従二位、貞観17年(875年)に正二位に昇叙された旨が記されている。
概要
名称
祭神
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも[原 1]、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されていた。
歴史詳細は「三島・大山祇信仰」を参照
創建
『大三島記文』(社伝)大山祇神子孫の小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。
『釈日本紀』(『伊予国風土記』(逸文)越智郡御島の条)大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話[原 2]による説があるが、いずれも確証は欠く[3]。摂津国の御嶋は諸説あり、三島鴨神社または鴨神社の何れかとされる。
『予章記』・『予陽河野家譜』越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする[3]。
概史
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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