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生誕山川さき
1860年3月16日
陸奥国会津
死没 (1919-02-18) 1919年2月18日(58歳没)
東京府
死因スペイン風邪
墓地大山元帥墓所(栃木県那須塩原市)
国籍 日本
別名山川咲子、山川捨松
出身校ヴァッサー大学
宗教キリスト教
(プロテスタント)(会衆派)
配偶者大山巌
子供大山柏、ほか
親山川重固
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。
生涯
出生と会津戦争官軍の砲弾を浴びて激しく損傷した会津若松城
安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった[1]。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった[1]。母・えん(父の没後に出家し勝聖院)は西郷氏の出身で唐衣(からごろも)の雅号を持つ会津藩屈指の歌人であった[1]。厳格な人柄であり、子供たちには軍記物を読み聞かせ、懐剣もすぐ抜けるよう袋を短めにしていたという[1]。
一家の運命を大きく変えたのは会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、弾薬の運搬を手伝っていた[2]。