大山事件
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "大山事件" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年7月)
大山事件の現場

大山事件(おおやまじけん)は、1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)と斎藤與蔵一等水兵(死後三等兵曹に特進)が殺害された事件である。中国側からは「虹橋機場事件」と呼ばれる。第二次上海事変のきっかけの一つになった。
事件大山勇夫中尉斎藤與蔵一等水兵

1931年上海停戦協定により租界内での軍事行動が規制された国民政府は、租界内部の政府関連施設警備のため、国民革命軍憲兵第4団を改編して上海市保安隊を編成した[1]。1936年4月、上海市保安隊は更に憲兵第6団を編入し、2個団制の上海市保安総団へと拡充、司令部は東煕華徳路(現東長治路)で総団長は吉章簡(黄埔2期)であった。旧憲兵第4団からなる第1団(団長:符岸壇上校、雲南12期)、旧憲兵第6団からなる第2団のほか、特務隊、通信分隊から構成され、人員は軍官・軍佐(将校相当官)300人、士兵2500人であった[2]

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件が勃発するも11日には日中両軍間に停戦協定が成立した。しかし25日に郎坊事件、26日には広安門事件が発生し、28日に日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)が、事件当日の8月9日も日本と中華民国の間で日中間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。

一方、国民政府最高軍事会議は7月13日、第2師補充旅(長:鐘松、黄埔1期)隷下の第658団(長:李忠)、第659団(長:何藩)、第660団の3個団(当時660団は蘭州に派遣されていたため実質2個団)を保安総団へと編入、それぞれ保安第3団と憲兵第13団とした[3]。京滬警備司令張治中は日本側の動向を警戒し、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けた精鋭・87師、88師隷下の排長・連長以上の軍官に密かに租界内部の偵察を行わせていた。また、保安総団は中国空軍が使用する虹橋機場(站長・李疆雄)にも保安第3団第1営(長:李秀嶺)を駐留、警察や各機関と連携しながら日本側の動向に目を光らせていた[4]

事件は、8月9日の午後6時半頃[5]、大山中尉が斎藤與蔵一等水兵を運転手として、当時の虹橋空港の辺、上海共同租界のエクステンション(越界路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊の隊員との間で起きた。

上海海軍特別陸戰隊司令部が発行した『上海方面開戦直前の概況(本項軍極秘)』によれば、海軍中尉の大山勇夫は8月9日に付近地区の視察及び陸戦隊本部への連絡の為に17時頃に日本海軍陸戦隊の西部派遣隊本部の置かれていた内外綿紗廠の水月倶楽部から制服を着用して出発した。一等水兵であった斎藤与蔵が運転する陸戦隊自動車で上海西部にある虹橋飛行場の越界路である碑坊路上を通行中、18時30分頃に支那保安隊員に射殺され、斎藤一等水兵は行方不明と記された。翌日の8月10日の早朝4時20分には、工務局、市政府、淞滬警備司令部各代表及び警官立ち合いの上で、現場に於て大山中尉の屍体が収容され、大山中尉の位置から北東へ離れた畑地帯で射殺された斎藤一等水兵の屍体を収容し、両人は射殺された後に刀剣で斬り苛まれ携帯品の一切を略奪されていたと記されている[6]
発生現場

事件の発生現場について、上述した『上海方面開戦直前の概況(本項軍極秘)』は、飛行場の南東隅にある正門の北方約100mであるとしており、戦史叢書の中国方面海軍作戦(1)の309頁でも、同じく発生現場は空港の南東の隅にある西門の北方約100mであるとしている[7]。しかし東京日日新聞社から発行された『北支事変画報』第3集の4-5頁によれば、発生現場は飛行場から約300m離れていたとされ[8]、外務省情報部長が事件2日後の1937年8月11日に公表した事件の説明でも、正門から300m離れた場所が発生現場だとしている[9]
報道
日本側の報道

日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表を報道した『上海朝日特電8月9日発』では次の様に書かれている。陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。ただし、当時の日本側の報道では越界路(エキステンション)の通行は自由だと主張されたが、租界から延長された越界路は中国側の許可を得ずに日本を含む列強諸国が無断で敷設し不法占拠したものに過ぎなかったので、日本側や工部局による越界路における主張や管轄権行使には法的根拠が無かった[10][11][12][13]。事件の起きた碑坊路は上海停戦協定の停止線を越えて中国側に存在する上に[14]、1935年7月の合意によって既に華倫路或穫必蘭路(Warren Road)より西側にある碑坊路の主権は中国側に回復されていた[15][16]
中国側の報道

『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。

フランスの報道

日本の内閣情報委員会はフランスのアヴァス通信社の報道を引用し、次のように報告している。上海大山事件(上海アヴァス電又は上海中央通訊社電)の結果である上海事件に付いてはアヴァス電だけでも数通あって、内容も食違い或は日本士官二名と言い或はトラックに便乗した日本兵だと言っているが、動機は日本側が無理に飛行場に入ろうと策したのを支那番兵が制止したのに対し日本側が発砲した為めだと言うに一致している[17]

イギリスの報道

日本の内閣軍事委員会はロイター通信の報道を引用し、次のように報告している。

ロイテル通信 虹橋飛行場に隣接せる一英國人談最近数日来日本人数名は飛行場付近を頻りにうろついていたが支那哨兵のため妨げられていた。九日午後五時頃一日本人運転の自動車が日本人一名を(共に水兵に非ず)客席に乗せ飛行場に入らんとせるため哨兵より発砲うち一名即死、他の一名は逃亡した事件あり。支那側でも一名死亡又は負傷した。尚該英人の姪(二名)は事件のためルビコン橋を渡り市内に行くのに支那保安隊一名及び工部局員一名の保護を受けるを必要とした。彼等は八時に至るも帰宅せぬ。工部局警察副総監エアーズは現場に行かんとして同橋の支那保安隊に阻止せられ止む無く帰還した[18]
張治中工作説張治中

ユン・チアンジョン・ハリデイは、事件は張治中による工作とみている。8月9日、張治中は?介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef