この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。大山ねずの命神示教会教団本部(神奈川県横浜市南区宮元町)
真実の光会館(神奈川県横浜市南区宮元町)
設立1953年9月23日
設立者供丸斎(稲飯定雄)
種類宗教法人
法人番号6020005000070
本部 日本 神奈川県横浜市南区宮元町4-82[1]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度25分41.1秒 東経139度36分30.9秒 / 北緯35.428083度 東経139.608583度 / 35.428083; 139.608583座標: 北緯35度25分41.1秒 東経139度36分30.9秒 / 北緯35.428083度 東経139.608583度 / 35.428083; 139.608583
代表役員森日出子(不明 - 2001年[2])
森眞一(2002年[3] - )
信仰対象大山ねずの命
重要人物供丸姫(森日出子)
ウェブサイトhttps://shinjikyoukai.jp/
テンプレートを表示
大山ねずの命神示教会(おおやまねずのみことしんじきょうかい[4][注 1])は単立宗教であり、日本の法人格もある[7]。信仰対象は大山ねずの命(おおやまねずのみこと)[8]。「ねず」は教会独自の字[9]で、「.mw-parser-output .jis90font{font-family:"Hiragino Kaku Gothic Pro","ヒラギノ角ゴ Pro","ヒラギノ角ゴ Pro W3","A-OTF 新ゴ Pro R","ヒラギノ角ゴ2","ヒラギノ角ゴ3","ヒラギノ角ゴ4","小塚ゴシック Pro R","小塚ゴシック Pro","SH G30-P","FC平成角ゴシック体","FA ゴシック","IPA モナー ゴシック","VL ゴシック","Droid Sans Japanese","MS PRゴシック","TGothic-GT01","東風ゴシック","さざなみゴシック","Komatuna","M+1P+IPAG","Mona","JSPゴシック","AR P丸ゴシック体M","EPSON 丸ゴシック体M","Osaka","CRPC&Gれいしっく","FGP平成明朝体W3","GT2000-01","和田研細丸ゴシック2000P","和田研細丸ゴシック2000P4",YOzFont90,YOzFontN90,"Yu Gothic UI","Meiryo UI";font-variant-east-asian:jis90}祇」のつくりの横画がないような字[注 2]であるが、Unicodeで規定されていないため、当記事ではこれ以降ひらがなで表記する。 大山ねずの命神示教会は、供丸斎(ともまるさい、[8]、本名:稲飯 定雄[10]、1905年 - 1988年)が1953年9月23日に設立した新宗教である。教会によれば、「神、仏、人の道」が教義である。 奉祭神は大山ねずの命であり、また、代表役員であった供丸姫(ともまるひめ[8]、本名:森 日出子[11]、1946年 - 2002年)がその化身であると教義で定められている。 2015年10月に法人番号が指定された[1]。 稲飯定雄が1952年(昭和27年)に宗教法人の認可を受け、翌1953年(昭和28年)9月23日、横浜市西区戸部町に大山ねずの命神示教会を設立[12]。その際、稲飯は「供丸斎」と改名し称号と合わせて「使者供丸斎」を名乗る[12]。またこの時、稲飯は使者供丸斎として「神示人相鑑定官[要説明]」という肩書を持つ。 有力な信者を支部長にし、横浜を中心に多くの支部を開所した[13]。 1946年11月15日、横浜市南区宮元町に森日出子が生まれる[11]。森家に生まれた日出子は、後の教会長である兄、後に供丸光と名乗る弟とともに成長したが、中学生のころから病気がちとなる。やがて原因不明の病により、20歳のときに医師から余命がわずかであると宣告される。そのおりに大山ねずの命の存在を知り、家族ぐるみで信者となる。1967年2月4日、快復したお礼のため戸部総本部を訪れた日出子に、供丸斎は神の運命であると告げる。 同年の7月から啓示を受けられるようになった日出子は、2年後に宮元支部の支部長として頭角を現していく[14]。 横浜市内の有力な支部の支部長が女性信者への暴行容疑で逮捕され、供丸斎も警察の聴取を受けることとなり、信者に動揺が広がった。この事件を利用し、供丸嬢(供丸斎の妻)や教会幹事長による供丸斎の排除も計画された[15]。 日出子の弟の依頼を受けた弁護士沼野輝彦により事件は不起訴処分となった。供丸斎の排除を計画した教会幹事長は教会を去り、供丸嬢は教会運営から遠ざけられた[16]。 1975年に日出子は「副使者供丸姫」の肩書を名乗り、その3年後には教会監査役として教会運営の中心になっていった。供丸姫は1985年に「使者」、翌年に直使(ちょくし)となった[17]。 供丸斎と供丸姫は支部制度を廃して教会を一元化。信者数は約10年の間に5万人からその10倍以上に発展した。1987年には本部を西区戸部町から供丸姫の生家のある南区宮元町に移し、神総本部(しんそうほんぶ)と称する[18]。
概要
日本での法人格
沿革
Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef