大将軍
たいしょうぐん
国 日本
地方近畿地方
都道府県京都府
自治体京都市
行政区北区
旧自治体葛野郡衣笠村
世帯数2,947世帯
総人口5,460人(国勢調査結果に基づく毎月推計人口、2017年6月)
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京都府立体育館(大将軍西鷹司町)京都府立山城高等学校(大将軍坂田町)地蔵院(大将軍川端町) / 「椿寺」の通称で知られる。
大将軍(たいしょうぐん)は、京都府京都市北区南部の地名(広域地名・学区名)であり、ここでは「大将軍」を町名に冠する7町を包括する総称として用いる。
概要、東は天神川をはさんで上京区、南は中京区西ノ京、西はおおむね西小路通をはさんで右京区花園に隣接する。
地区の境域は、京都市内の地域自治の単位である学区(元学区)の「大将軍学区」に一致する。また、全域が京都市立大将軍小学校の通学区域[1]と、京都市立北野中学校の通学区域に含まれる[2]。
かつて多くの映画作品を制作した日活大将軍撮影所があったことで知られ。戦前から多くの文化・教育施設が立地していた。現在は文教地区の雰囲気を残す住宅街主体の地区となっている。 地名はこの地区の近隣(東北側)に立地する大将軍八神社(上京区西町)に由来する[3]が、神社名の読みが「だいしょうぐん」なのに対して地名は「たいしょうぐん」であり若干異なる。 大将軍地区は花園遺跡や北野遺跡、また広隆寺の創建当時の所在地と推定される北野廃寺跡などの古代遺跡に近く、飛鳥時代以降の集落の存在が知られている。平安時代には平安京の右京の北辺に位置し、宇多上皇の御所「宇多院」がこの地に置かれたとされているが詳らかではない。また大将軍坂田町・同東鷹司町からは当時の遺跡が発掘されており、寝殿造の原型と考えられる建物の遺構が確認された[3][4][5]。しかし平安時代後期の右京の荒廃にともなってこの地も次第に農村化していく。豊臣秀吉が御土居を構築した際には、この地は御土居の外側として市街地からは除外され、近世(江戸時代)には山城国葛野郡大将軍村として幕府直轄領となった[3]。明治期に入って1889年に町村制が施行されると、大将軍村は(葛野郡)衣笠村として統合され、大字「大将軍」となった[3]。 1890年代末から1900年代にかけて、この地区には隣接する花園村をまたいで「京都産業講習所」(のちの京都高等蚕業学校、現在の京都工芸繊維大学)、さらに京都府立第五中学校(現在の京都府立山城高等学校)が開校した。その後、1918年に京都市に合併されて上京区に編入される[3]と、大字「大将軍」は5町(大将軍西町・同川端町・同坂田町・同鷹司町・同一条町)に分割されたが、いまだ近郊農村の面影を残していた。また同し1918年には法華堂(上京区)から日活関西撮影所がこの地区に移転して「大将軍撮影所」と称され、10年後1928年の太秦への移転にともない閉鎖されるまで、この撮影所は多くの映画作品を制作した。 昭和戦前期になると人口増を背景に第二衣笠尋常小学校
歴史
地名の由来
平安京から衣笠村まで
映画制作のメッカへ
開発と宅地化の進行
年表
1889年 - 町村制施行により京都府葛野郡衣笠村に属し、大字大将軍となる。
1907年 - 京都府立第五中学校(のち府立京都第三中学)が開校(現・京都府立山城高等学校)。
1899年 - 農商務省京都産業講習所(のちの京都高等蚕業学校)の開設。
1918年
衣笠村の京都市への合併に伴い、全域が上京区に編入。大字大将軍は大将軍西町・同川端町・同坂田町・同鷹司町・同一条町に分割。
日活大将軍撮影所が開所。
1928年 - 大将軍撮影所が移転により閉鎖
1931年 - 京都市立第二衣笠尋常小学校が開校。
1939年 - 西大路通の開通。
1941年 - 第二衣笠校を大将軍国民学校と改称(現・京都市立大将軍小学校)。
1943年 - 京都市電西大路線が開通。大将軍停留所の開設。
1955年 - 北区の新設により全域が同区に編入。
1960年 - 町名変更により大将軍鷹司町が廃止され同西鷹司町・同東鷹司町・同南一条町が設置(現行の7町となる)。
1964年 - 花園青果地方卸売市場が開設。
1968年 - 京都工芸繊維大学花園校舎(繊維学部キャンパス)が移転により廃止。
1971年 - 京都府立体育館の開館。
1978年 - 京都市電西大路線の廃止。
2014年 - 京都府立医科大学花園校舎が移転により廃止。
2017年 - 花園青果地方卸売市場の廃止。
地区内の町名・地誌
大将軍西町 - 地区の中北部に位置し、川端町とは西大路通、東鷹司町とは仁和寺街道を挟んで隣接している。
大将軍川端町 - 地区の東北角、西大路通と仁和寺街道によって区切られた町域。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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