姫路市交通局モノレール線
手柄山交流ステーション(旧手柄山駅舎)で
保存されている車両(2011年8月)
基本情報
現況廃止
国 日本
所在地兵庫県姫路市
種類跨座式モノレール(ロッキード式)
起点姫路駅
終点手柄山駅
駅数3駅
開業1966年5月17日
休止1974年4月11日
廃止1979年1月26日
所有者姫路市交通局(営業当時)
運営者姫路市交通局(営業当時)
車両基地手柄山駅構内検修施設
使用車両100形、200形
路線諸元
路線距離1.6 km
線路数単線
電化方式直流600 V 第三軌条方式
最大勾配60 ‰
最小曲線半径80 m
保安装置ATS
最高速度50 km/h
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モノレール線(モノレールせん)[1][2][3]は、かつて兵庫県姫路市内で姫路駅と手柄山中央公園にあった手柄山駅の間で運行されていた姫路市交通局の鉄道路線(モノレール)。『鉄道要覧』等には路線名の記載は無く[4]、一般には姫路市営モノレール(ひめじしえいモノレール)、姫路モノレール(ひめじモノレール)などと呼ばれていた。1966年の姫路大博覧会開催に伴って開業したが、営業不振などにより8年後の1974年に休止、1979年に廃止となった。 停車場・施設・接続路線 1974年休止時の状況 [注 2] 姫路市の戦後復興を指導した石見元秀市長の下、交通混雑の緩和と市勢拡大を目指して、市南部の工業地域や市北部の住宅地域と都心を結ぶ目的で企画された。石見は海外視察で乗車したアメリカのディズニーランドのモノレールの快適さに強く興味を引かれたという[7]。 1966年4月6日から同年6月5日にかけて手柄山で開催された「姫路大博覧会」(以下、姫路博)会場への輸送機関という名目で、姫路駅 - 手柄山駅間を先行開業させた。総工費14億5千万円と8か月の工期を要した[8]。当初は開幕に先立つ4月3日の開業を予定していた[9]が、姫路駅予定地の立ち退き交渉に手間取ったこと[10]、台風や集中豪雨の影響もあって姫路博開幕には間に合わず、会期後半の5月17日になってようやく開業した。これに続けて飾磨・広畑の臨海工業地域まで路線を延ばすことが検討され、さらに市内に環状路線を建設し、日本海側の鳥取まで路線を延伸する壮大な構想が立てられていたという[11]。 しかし、運行距離が短く、終端が山上の都市公園内という立地もあって、姫路博終了後は利用者が激減。開業初年度は402,967人だった利用者数も、翌年(1967年)度には334,517人、翌々年(1968年)度は245,718人と、当初予想の100万人を大きく割り込んだ[12]。輸送密度も毎年300 - 400人台が続き、後年の国鉄特定地方交通線並みに低迷していた。起終点の立地もさることながら、並行する山陽電鉄の姫路 - 手柄間の運賃が1969年まで20円、1974年まで30円[13]だった時期に、姫路 - 手柄山間が100円[注 3]という高額な運賃の影響も大きく、「タクシーの方が安かった」[14]とまで言われた。営業係数は開業した1966年で195、翌年以降は400を超える水準で推移し、毎年1億円あまりの資金が姫路市の一般会計から投入され[7]、一部の市民からは「市のお荷物」とまで言われたという[12]。
路線データ
凡例
0.0姫路駅
播但線(飾磨港線)
0.5大将軍駅 1968年休止
1.6手柄山駅
路線距離:
線路延長: 1,824m(免許区間は姫路 - 手柄山南2.0km[5])
営業キロ: 1,630m
方式:跨座式(ロッキード式、軌道桁断面幅 900mm)
駅数:3駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線 直流600V(第三軌条方式)[注 1]
閉塞方式:なし
保安装置:ATS
最急勾配: 60‰(約3°26′。山陽電気鉄道本線オーバークロス部の前後)
最小半径: 80m(大将軍駅の手柄山方)
所要時分: 下り(姫路→手柄山)3分50秒、上り(手柄山→姫路)4分40秒上りの所要時間が50秒も長いのは、60‰の下り勾配を経ての姫路駅進入がATSによる10km/h制限が課されていたため[6]。
歴史