大宰府
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この項目では、古代地方行政機関について説明しています。

現存する地方自治体については「太宰府市」をご覧ください。

福岡県の神社については「太宰府天満宮」をご覧ください。

その他については「太宰府」をご覧ください。

正殿跡(都府楼跡石碑).mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}大宰府 位置図

大宰府(だざいふ)[注釈 1]は、7世紀後半に、九州筑前国に設置された地方行政機関。軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。なお多くの史書では太宰府とも記される[注釈 2]政庁の中心は現在の福岡県太宰府市筑紫野市にあたり、国の特別史跡に指定されている。
概要北へ約3kmの岩屋山(標高281m)からの遠景

役職としての大宰(おほ みこともち)・大宰帥は、外交・軍事上重要な地域に置かれ、数か国程度の広い地域を統治する地方行政長官である。九州筑紫には筑紫大宰が置かれた。「総令」・「総領」などとも呼ばれる[1]

吉備国にも大宰が置かれた記録は在るものの、一般的に「大宰府」と言えば九州筑紫のそれを指すと考えてよい。

平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある[2]

唐名は、「都督府」であり、現在、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することも多い。外交と防衛を主任務とすると共に、筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向薩摩大隅からなる西海道9国と壱岐対馬多禰(現在の大隅諸島弘仁15年/天長元年(824年)に大隅に編入)の三島については、(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。西海道諸国の牧から軍馬を集めて管理する権限を有していた。

外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。
区画

想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡[注釈 3] は国の特別史跡[3]

面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。

主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。

「大宰府跡」は1921年(大正10年)3月3日国の史跡に指定。1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡に指定された。その後、1970年(昭和45年)、1974年(昭和49年)、2009年平成21年)、2014年(平成26年)(3月と10月の2回)、2015年(平成27年)に追加指定が行われ、指定面積は320,235.91平方メートルである。政庁(都府楼)地区のほか、1キロメートルほど離れた客館跡(西日本鉄道二日市車両基地跡)も特別史跡大宰府跡に含まれている(2014年(平成26年)10月追加指定)[4]

2015年(平成27年)4月24日、文化庁から「古代日本の『西の都』?東アジアとの交流拠点?」として日本遺産に認定される[5][6]

交通には日田街道(宰府往還)があり、北は博多、南は豊国日田に繋がっていた。さらに日田を起点として別府や、日向国肥国などと往来することができた。
職員

長官は大宰帥(だざいのそち 唐名:都督)といい従三位相当官、大納言中納言級の政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないことが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、商船との私貿易の中心となった。

北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、大宰府に集結させられた。そのうち400人前後が大宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀和銅2年(709年)2月戊子条)。

四等官は、以下の通り。

従三位 - 唐名: 都督、都督尹権官: 権帥

弐(すけ)

大弐(だいに) 正五位上 - 唐名: 都督長史、都督大卿

少弐(しょうに) 従五位下 - 唐名: 都督司馬、都督小卿


監(じょう) - 唐名: 都督録事、都督郎中、参軍事

大監(だいげん・だいじょう) 正六位

少監(しょうげん) 従六位


典(さかん) - 唐名: 都督録事、都督主簿

大典(だいてん・おおさかん) 正七位

少典(しょうてん) 正八位

その他、令によると以下の官人が置かれ、その総数は約50名であった。

従六位

大判事


正七位

少判事

大工

防人正


正七位

主神


従七位

大宰博士


正八位

陰陽師

医師

算師

少工

防人祐

主船

主厨


大初位

判事大令史


大初位

判事少令史

防人令史


史生

歴史
古代の国交の要衝

大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、前身は三角縁神獣鏡などが出土する那珂遺跡群福岡市)であったと考えられている[7]


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