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やノートページでの議論にご協力ください。大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。 大宰府は大宰帥を長官とし、権帥を長官代理とする。朝廷の鎮西総司令部であり、九州地域の兵権を掌握した。この大宰府の長官として帥は位置づけられるが、弘仁年間以後には皇族が列せられる慣例があることから、実質的な支配権は権帥が握った。従って、大宰権帥は実質的な大宰府の長官である。また、これ以降、大宰権帥と大宰府の次官である大宰大弐を同時には任命できない慣習が生まれた。 更に、中国(宋)との交易の利権も大宰府に集中したことから、その利権を目当てに大宰権帥には中納言・大納言経験者がなることが多かった。それらの例として自らが陣頭指揮を執って刀伊の入寇を撃退した藤原隆家や、大宰府を制圧した藤原純友に対抗した橘公頼、白河法皇の院政時代に活躍した大江匡房等が挙げられよう。 だが、他方で大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多かった。例としては阿保親王・源高明・藤原伊周・松殿基房などが挙げられる。本来こうした貴族は大宰員外帥と呼ばれ、正規の帥・権帥とは区別されていた(大宰員外帥に任じられた例としては藤原豊成・藤原浜成・藤原吉野・菅原道真など)が、前述の阿保親王左遷の際に本人に直接関わりない事件である事と上皇の皇子である事への配慮から特に「権帥」の称号を与えて従来の員外帥とは区別した。やがて、平安時代中期になると員外帥と権帥の区別は失われて、ともに「権帥」と称される事となった。そのため、正規の権帥の中には外聞を気にするものもおり、平惟仲のように懇願して大宰帥として任命されるものもあった。 その後、在庁官人に権力が移り、保安年間の源重資を最後に権帥も遙任化していった(治承年間に松殿基房が左遷によって大宰権帥となりその監視の為に藤原隆季が大宰帥に任じられた例があるが、基房が途中の備前国で出家して同地に留まる事を許されたために派遣が中止されている)。 大宰権帥を務めた人物の一覧。ただし、*印は大宰員外帥を示す。 名補任官位解任
概要
大宰権帥の一覧
藤原豊成*天平勝宝9歳7月12日(757年8月1日)任正二位天平宝字8年9月14日(764年10月13日)復右大臣
藤原浜成*天応元年6月16日(781年7月11日)任参議・従三位延暦9年2月18日(790年3月8日)薨去
阿保親王弘仁元年9月19日(810年10月20日)任四品天長元年(824年)入京
藤原常嗣承和4年2月13日(837年3月22日)任参議・正四位下承和7年4月23日(840年5月27日)薨
藤原吉野*承和9年7月23日(842年9月1日)任正三位承和13年8月12日(846年9月6日)薨
惟喬親王天安2年1月16日(858年2月3日)任四品天安2年10月26日(858年12月4日)転正帥
在原行平貞観15年12月18日(874年1月10日)任参議・正三位元慶元年10月18日(877年11月26日)遷治部卿
(藤原冬緒)貞観18年1月24日(876年2月22日)?任参議・従三位
藤原国経寛平6年4月16日(894年5月24日)任参議・従三位寛平9年3月15日(897年4月20日)停任
菅原道真*昌泰4年1月25日(901年2月16日)任(従二位)延喜3年2月25日(903年3月26日)薨
在原友于延喜7年5月1日(907年6月14日)任参議・正四位下延喜10年4月20日(910年5月31日)卒
橘公頼承平5年2月23日(935年3月30日)任参議・正四位下天慶4年2月20日(941年3月20日)薨
源高明安和2年3月26日(969年4月15日)任(正二位)天禄3年4月20日(972年6月4日)入京
橘好古安和3年1月25日(970年3月5日)任中納言・従三位天禄2年11月2日(971年11月22日)任大納言
藤原為輔寛和2年1月28日(986年3月11日)任権中納言・正三位寛和2年8月26日(986年10月2日)薨
藤原伊周長徳2年4月24日(996年5月14日)任(正三位)長保3年閏12月16日(1002年2月1日)復本位
藤原隆家長和3年11月7日(1014年12月1日)任中納言・従二位寛仁3年12月21日(1020年1月18日)辞