大宮宿
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『木曾街道 大宮宿 冨士遠景』[1]
天保6年 - 8年(1835年 - 1837年)、渓斎英泉
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、が花をつける早春の(さと)。左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬(き-ぐわ)を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(#東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。

大宮宿(おおみや-しゅく)は、日本近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町中山道六十九次(または木曾街道六十九次)のうち江戸日本橋から数えて4番目の宿場(武蔵国のうち、第4の宿[2])。

所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡大宮宿[3]。現在の埼玉県さいたま市大宮区にあたる。
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大宮宿の設置

中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の鳥居前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。

大宮宿の脇本陣の主であった栗原家が伝えるところによると、天正19年(1591年)に栗原次右衛門保逢が地子免許と引き替えに宿役を勤めると願いを出した。免税は受け入れられなかったが、これを機に大宮宿が設けられたという。宿の名は氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなむ。この年は徳川家康が北条氏にかわって関東地方を支配するようになって間もなく、他の宿場の整備年代との関連で、もう少し年代が下るのではないかと言われる[4](文禄年間から慶長7年頃[5])。

当初の大宮宿は、大門通りと呼ばれた参道沿いに、宮町、中町、下町と続く3つの町からなった[6]寛永元年(1624年)には、1キロメートル北東の寿能城跡に屋敷を構えていた北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し[7]、大門町を開いて4町となった[8]
氷川参道からの移転

寛永5年(1628年)に、大宮宿の人々は、西の原野に新道を開き宿場をそこに移した[5]。往還の人を神社に参らず通過させるのが神に対して恐れ多いこと、道を直にすると便利なこと、移転の跡地を畑にすれば年貢も増えるというのが、その申請理由であった。翌寛永6年(1629年)に検地が実施され、この時に地子免許を受け、伝馬役負担が定められた[9]。新道は、氷川神社の一の鳥居から北西方向、西寄りに分岐させて開いた。
大宮宿の終焉

明治時代に入り、街道の重要性の低下に伴い、宿場町としてのにぎわいは終わった。日本鉄道が敷設されたものの、町の衰退から浦和駅 - 上尾駅間には鉄道駅が設けられなかった。しかしその後の誘致運動により東北本線の分岐点として大宮駅が開業し、さらに大宮工場が設置されたことで、鉄道の町として発展した。
町並み

道中奉行による天保14年(1843年)の調べ[10] で、町並みは9町30間(約1.04 km)。宿内人口1,508人(うち、男679人、女829人)。宿内家数319軒(うち、本陣1軒〈在・宮町一丁目〉、脇本陣は9軒で中山道の宿場としては最多である。問屋場4軒、旅籠25軒。他に、紀州鷹場本陣〈北澤家〉1軒、等あり)[note 1]

人口は浦和宿とほぼ同じ規模であったが、宿場ではなく馬継場を起源としていたこともあり、問屋場が多い。また、当時江戸から1日で歩く距離としては大宮宿までが限界だったこともあり、脇本陣が町の規模に合わないほど多いという特徴がある。

宿場は当初、本村(のち、高鼻村、さらに、宮町)、北原村、右衛門八分(のちの堀之内村)、甚之丞新田(のち、寿能村、さらに、大門町)、新宿中町、新宿下町、吉鋪新田の7組で構成され、これらを大宮宿と総称した。後に、宮町・大門町・仲町・下町・吉敷町の5町構成に形を変えながら集約・発展を見せている。
紀州鷹場本陣

紀州鷹場本陣は、寿能城家老・北澤宮内の子孫、北澤次郎左衛門家の屋敷であった。同家は甚之丞新田の開拓者であり、紀州鷹場本陣は大宮宿の草分けであった。同家は紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。なお、北澤家は後世、日本近代漫画の創始者と評価される北澤楽天を輩出している家柄である。

建物は安永4年2月1日(1775年)に出火全焼。現在当地は島屋大宮店(大宮駅前)になっており、屋上に北澤稲荷を残す。
氷川神社

氷川神社(氷川明神社)は、武蔵一宮と称される神社である。大宮宿の名は神社の雅名としての「大宮」に由来する。今日の中山道から右手に分岐して氷川神社へ向かって18町(約2km)ほど続く参道(「氷川神社参道」)は、寛永5年(1628年)に一の鳥居から左手に延びる道が新たに造られるまでは中山道であった[note 1]。参道を北に歩きつめてから、神社には入らず迂回路をとっていたのだが、その迂回路については複数の伝えがあり、はっきりしない。なお、今日ある欅並木の参道は、江戸期には松並木、太平洋戦争の前までは杉並木であったという。

毎月の5と10の日には六斎市[11] が立てられていた(五十の市[12])。
安藤橋

氷川神社参道から分かれて中山道を北に進むと最初にある大きな交差点が吉敷町交差点である。かつて大宮宿の南の入り口であったこの場所には東西に流れる排水路があり、長さ7尺(約212cm)、幅1間4尺(約303cm)の石橋が架かっていた。この橋の名を「安藤橋」といったが、それは大宮宿の人々を救った一人の武士の名にちなんだものである。

北澤家の失火に始まり大宮宿の85軒を焼いた安永4年(1775年)の大火(北澤大火)は、その救助活動が7日に及ぶほどの惨事であったという。言い伝えによれば、この事態に際してときの勘定奉行であり道中奉行であった安藤弾正(安藤惟要〈あんどう これとし〉。安藤弾正少弼惟要。在職:1761- 1782年)は、被災者に幕府の御用米と御用金を施し、大いに救ったと伝えられている。しかし、それは許可を取らない独断による措置であったため、彼は責任を問われて切腹した[13]。安藤弾正に救われ、その死を悼む人々は、その徳を永く後世に伝えるため、墓碑を建てて祀ったという。碑は「安藤弾正少弼惟要」と刻まれた小さなものであるが、交差点の脇に今も見ることができる。

なお、安藤橋は今はなく、小さな石碑が残されている。また、さいたま市立博物館には、欄干の北側にあって橋の名が刻まれていた親柱が保存されている。
お女郎地蔵と火の玉不動

江戸時代、大宮宿に柳屋という飯盛旅籠があり、街道筋でも評判の千鳥・都鳥という美しい姉妹が旅人の相手をしていたという。


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