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やノートページでの議論にご協力ください。大宮地区(おおみやちく)は、埼玉県さいたま市北部の旧大宮市域や大宮駅周辺を指す地域総称。 広義にはさいたま市の北部の旧大宮市域(概ね西区・北区・大宮区・見沼区)を指した地域名である。大宮駅周辺を指す場合もある。 旧大宮市域 (89.47 km2) の人口は536,888人となっている[注釈 1]。最も人口が多いのは見沼区の166,513人で、北区、大宮区、西区と続く。 「大宮町 (埼玉県)」も参照。 古代に武蔵国一宮である氷川神社の鳥居前町として、また江戸時代以後は中山道の宿場町として発達した。江戸から近い割には大きな宿場であり、天保14年(1843年)時点で人口は1,508人で、県内の中山道の宿場町の中では本庄宿、熊谷宿、鴻巣宿、蕨宿、深谷宿に次ぐ規模であったが、脇本陣は9軒と一番多かった。紀州藩の鷹場本陣も置かれていた。 その後明治時代には廃藩置県により浦和に埼玉県庁が置かれた。当初は大宮に県庁を設置する構想はあったが、諸事情により、隣接する浦和に置かれることとなった。こうして浦和は県庁所在地として発展した。 一方で明治維新以後、衰退しかけていた大宮に転機が訪れたのは、鉄道の開通だった。1883年には日本鉄道の第一期線(上野駅 - 熊谷駅(現:JR東日本の高崎線の区間)が開業したことによる。当時、浦和駅と上尾駅の間に大宮駅はまだ設置されていなかった。 これは開業当時、大宮宿から離れると243戸の家しかなかったことや、当時の蒸気機関車は牽引力が低く、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったため、駅間距離が短くなってしまうことを防ごうとしたことが原因であった。後に大宮町長を務める白井助七ら地元有志が町の衰退を阻止するため駅の誘致を進め、第二期線(大宮駅 - 青森駅(現在のJR東日本東北本線・いわて銀河鉄道線・青い森鉄道線の区間)の分岐点に1885年、大宮駅が置かれた。のちに駅北側には国鉄大宮工場、南側には大宮操車場などが所在し、旧国鉄(現:JRグループ)も全国12か所の鉄道の町の一つとして発展した。 また、1923年の関東大震災で東京や横浜は壊滅的被害を受け、多くが埼玉県の浦和や大宮などに転居し、大宮もまた人口が急激に増加した。とくに罹災した東京・小石川(現:文京区)の盆栽業者の多くが当時通称「源太郎山」と呼ばれた場所に移住し、後に盆栽町という地名が誕生するほどの「大宮盆栽村」として発展し、大宮は「盆栽の町」としても有名になった。現在も盆栽業者は定住している。 1940年、大宮町は三橋村、日進村、宮原村、大砂土村と合併し、「大宮市」が発足。県内では川越市、熊谷市、川口市、浦和市に次いで、5番目の市制施行を行った。大宮市になってからも1955年に、指扇・馬宮・植水・片柳・七里・春岡の6村を合併し、隣接する浦和市同様、市域を東西に広げた。 鉄道交通では1982年6月23日には東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が、11月15日には上越新幹線大宮駅 - 新潟駅が開業し、大宮駅は一躍首都圏有数の鉄道ターミナル駅に発展した。1985年の上野駅 - 大宮駅間開業まで、大宮駅は新幹線の始発駅だった。 2001年5月1日、浦和市・大宮市・与野市が合併し、さいたま市が発足。2003年4月1日にはさいたま市が政令指定都市に移行し、旧大宮市域からは4つの行政区が誕生した。なお、旧浦和市域だった大原六丁目・七丁目は大宮区に、旧大宮市域だった北袋町一丁目と錦町の一部は新都心となって中央区に属することとなった。
概要
地区人口
歴史
大宮地区の行政区
概ね旧大宮市域に位置する行政区
西区
旧三橋村・日進村(下内野・三橋・上内野・西内野・宮前町)
旧指扇村(上野本郷・内野本郷・指扇・指扇領辻・指扇領別所・清河寺・高木・中釘・西新井・西大宮・平方領々家・宝来・峰岸)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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