大宮公園
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大宮公園

分類都市公園(広域公園)[1]
所在地埼玉県さいたま市大宮区高鼻町四丁目
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度55分8.48秒 東経139度37分50.95秒 / 北緯35.9190222度 東経139.6308194度 / 35.9190222; 139.6308194座標: 北緯35度55分8.48秒 東経139度37分50.95秒 / 北緯35.9190222度 東経139.6308194度 / 35.9190222; 139.6308194
面積67.8 ha
設計者長岡安平井下清本多静六田村剛
告示都市計画決定:昭和37年3月19日
開設:明治18年9月22日
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大宮公園(おおみやこうえん)は、埼玉県さいたま市大宮区および見沼区にある、67.8 haの面積を有する埼玉県営の都市公園(広域公園)である。1990年平成2年)に日本さくら名所100選に選ばれた。
歴史
大宮公園川瀬巴水『大宮氷川公園』(1930年・昭和5年)1979年頃の大宮公園(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

かつて大宮公園にあたる敷地は見沼の入江があり、湿地帯が広がっていた。その名残は今もボート池や白鳥池に残る。

明治時代に政府は寺院・神社の整理を行うとともにその領地の大部分を国有地にした。1873年明治6年)1月太政官(明治政府)が各府県に対して寺社の境内地等名所・旧跡地に公園を設定するため、その候補地を選定する旨を公告した。埼玉県では1874年(明治7年)11月に現浦和区調神社境内を整備し浦和偕楽園とする布告を出した。これが浦和公園(調公園)の前身であるが、この頃大宮氷川神社旧境内地等も若干の樹木を伐採、小径をつけたくらいの偕楽園が造られたようだが、公園とは呼べるものではなかった。

1884年(明治17年)3月大宮宿その付近の村10にもおよぶ村の代表矢部忠右衛門、白井輔七、岩井右衛門ら43名は県令吉田清英に対して「公園及ビ維持方法ノ儀ニ付願上ゲ奉リ候」という嘆願書を提出した。嘆願書によると氷川神社が上地した官有地(国有地)のうち二ヵ所あわせて13町3反1畝8歩を人民の散歩、運動、健康保全のため人民偕楽園の地とされたいこと、維持費としては有志の者が金千円を拠出、銀行に預金し利息をそれに当てまた花、樹木等寄付を募るとした。埼玉県では直ちに内務卿山縣有朋、農務卿西郷従道に宛てて「官幣大社氷川神社引裂上地、公園ト定メラレ度キ伺」を提出、それに対し二ヶ所のうち寿能城跡地を除いて公園の設置が認められた。再度寿能城跡地を公園に含める為の陳情をしたが認められなかった。

この当時公園建設の技師が大宮一帯に居らず、埼玉県で公園建設の技師を世話してもらい、1884年(明治17年)12月に、東京府の庭園師佐々木という者に設計を依頼した[2]1885年(明治18年)4月に、公園の管理・休憩所として含翠楼という建物が完成し、園内や東屋、ベンチを設置し、1885年(明治18年)9月22日に開園となった。

公園の創設費は、民間の寄付と園内の伐採した樹木の売り払った金を元にした。県営とは名前だけで、埼玉県の予算では特別会計とされ、維持・運営には苦労を伴った。拠出金の利息で運営する予定であったが、時より不景気となり、利息での拠出が出来なくなった。北足立新座郡役所が管理したが、1891年(明治24年)内務省訓令により、公園は所在地の町で維持保存をすることになった。北足立郡大宮町に管理が移り、公園運営に色々問題が起こり1898年(明治31年)4月に直接管理に至った。

そして埼玉県で初めての県営公園として整備される事となる。1913年大正2年)に、埼玉県は東京市の嘱託職員であった造園家長岡安平と東京市の技師井下清に公園拡張計画の作成を依頼し、1915年(大正4年) に計画案を提出。しかし水害により予算が捻出出来ずに頓挫することとなった。1921年(大正10年)に、埼玉県に提出された林学博士本多静六田村剛による「氷川公園改良計画」により、大規模な公園整備・拡張が進められ[3]桜の植樹と埼玉県営大宮公園野球場などが整備された。

1962年昭和37年)に都市計画公園として決定され、1980年(昭和55年)に「第二公園」が大宮公園東側の見沼に、2001年(平成13年)は「第三公園」が第二公園南側の見沼に開設された。また、第二公園の北には旧大宮市により、市営大和田公園が開設されている。

また、明治・大正時代では鉄道を利用すれば東京から約一時間で訪ねることができたため、埼玉県民だけでなく東京近郊の人々の格好の行楽地であった。多くの文学者が来訪、滞在し、中には「大宮公園」という名を自身の作品に登場させる者もいた[4]

森?外は自身の小説である「青年」にて、大宮公園で主人公の青年と女性が遊んでいる様子を描いている[5]

1891年(明治24年)秋、東京帝国大学国文科の学生であった正岡子規は、試験勉強のため、大宮公園内の割烹旅館・万松楼に10日ほど滞在した[6][7][8][9][10]。松林に囲まれた静かで涼しい大宮公園の環境を気に入った正岡は、四国の松山にいた親友・夏目漱石を呼び寄せ、共に1、2泊した[6][8][9][7][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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