大宮・村山口登山道
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大宮口(座標:富士山本宮浅間大社
村山口(座標:村山浅間神社

大宮・村山口登山道(おおみや・むらやまぐちとざんどう)は、富士山登山道の1つである。全経路が現在の静岡県富士宮市にある。史跡および特別名勝(共に富士山)の文化財の範囲に含まれ、また富士山世界文化遺産における構成資産「富士山域」の構成要素となっている。
概要富士山本宮浅間大社

「大宮」[注釈 1]および「村山」[注釈 2]はそれぞれ富士山信仰の中心地であり、登山口を有する地であった[1]。それぞれ「大宮口」[注釈 3]「村山口」[注釈 4]があり、総称して「大宮・村山口登山道」と言う。大宮の東北に村山が位置し、その北に富士山が位置する。

平成24年(2012年)には文化財保護法の下に大宮・村山口登山道の全域が史跡に指定され[2]、また富士山世界文化遺産の構成資産のうち「富士山域」に包括されている[3]。また万延元年(1860年)に英国特命全権公使ラザフォード・オールコックが外国人初の富士登山を行った際に使用されたことでも知られる。
ルート湧玉池

登拝ルートの推定として、学術的には富士参詣曼荼羅図から読み取る試みが広くなされている。富士参詣曼荼羅図の代表である「絹本著色富士曼荼羅図」には東海道を経て登拝する道者[注釈 5]や海路を用いる道者が描かれている。富士参詣曼荼羅図は道者のルートを意識した絵図となっており、上記の道者が富士山本宮浅間大社に至り湧玉池で禊を行う様子が図示されている。そこから東北に至ると富士山興法寺[注釈 6]が位置し、村山浅間神社や大日堂・大棟梁権現、更に北上し中宮八幡宮・御室大日堂等が図示されている[4]

当図で道者は村山より上では金剛杖を手にし、中腹以上では菅笠を被らず登拝している。また静岡県指定有形文化財の富士曼荼羅図[注釈 7]にも同様に比定できる図が確認されている[5]。また近世の記録として高力猿猴庵天明6年(1786年)『東街便覧図略』に元吉原(静岡県富士市)の富士見屋という売店の様子が描かれ、店内に「富士山禅定圖」[注釈 8]と記した図が描かれている。このことから、登山案内図が商店などで販売され、道者が登拝前に購入していたとされている[6]。また『駿河国新風土記』には「富士山に登る道者に木綿袈裟といふものを作りて出す」とあり、道者は先達からこれらを買い求め事前に登拝の準備をしていた[7]。大宮口と村山口では金銭以外の奉納物が納められることも多く[8]、例えば駿河国の遠州地方からの道者の場合遠州の特産物である茶を奉納している例などが多くあり、宿泊代としている[9]
大宮から村山大宮・村山口登山道で富士山頂へ向かう様子が描かれている(絹本着色富士曼荼羅図)

大宮には道者坊[注釈 9]が存在しており、道者の宿坊として用いられていたと考えられている。この「大宮道者坊」は浅間大社の社人衆により運営されており、『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古ヘ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とある。中世には既に整備されており、徐々に統合されていったと考えられている[10]。また今川氏輝判物[原 1]に見える「西坊屋敷」や今川義元判物[原 2]に見える「大宮西坊屋敷」が大宮道者坊の1つではないかとする指摘もある[11]

近世初頭における大宮・村山口登山道の様相を示す史料として、慶長13年(1608年)の『寺辺明鏡集』(興福寺大乗院旧蔵)[注釈 10]がある[13][14]。同六月九日駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ 先ソコニテコリ[注釈 11]ヲトル コリノ代六文出シテ大宮殿[注釈 12]ヘ参也 ? 『寺辺明鏡集』

湧玉池で垢離を取り浅間大社に参拝し、その後村山の富士山興法寺へ至り大宮口と同様垢離をとり(龍頭滝)、登山へ挑む様子が記されている。この際は村山三坊のうち大鏡坊に宿泊している[15][16]。御室大日・中宮等を経た後、富士山でお鉢巡りを行う様子も記されている。また富士山の区分を「茅原」「深山」「ハゲ山」と三段階に分けている[17]。これら「富士参詣曼荼羅図」諸本の様相と他史料の記述は一致しており、当時の南口における一般的な登山風習であったことが指摘される[16]

現在も「富士山道」の道標が、大宮口と村山口の間[注釈 13]に残る[18]。道標には「右富士山道」とあり、右が登拝道であり、左は山宮御神幸道となる[19]
村山から富士山頂富士山興法寺の後身である村山浅間神社

村山から登拝する場合夜行登山[注釈 14]となるため[20]、その前に村山の宿坊にて宿泊するのが慣例であった。その際は大鏡坊であることが多く、近世を通して同様である。前述の『寺辺明鏡集』がそうである他、近世の登拝記録である羽倉簡堂が記した天保9年(1838年)「東游日歴」、原得斎が記した文政11年(1828年)『富嶽行記』等でも大鏡坊に宿泊したことが示されている[21]。また西国の道者も大鏡坊を用いている記録が多い(後述の西国との関係を参照)。

村山浅間神社の西側が登山道であったとされ[22][23][24]、登山道に入ると「発心門」が位置し、ここで道者は自らの名を札打ちするという風習があった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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