大宝寺義氏
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 凡例大宝寺義氏
武藤(大宝寺)義氏供養塔
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文20年(1551年
死没天正11年3月6日1583年4月27日
改名満千代(幼名)→大宝寺義氏→桃翁(号)
別名通称:四郎三郎
渾名:荘内屋形、悪屋形
戒名浄影
官位出羽守
主君上杉謙信織田信長
氏族大宝寺氏藤原姓
父母父:大宝寺義増
兄弟義氏、義興
東禅寺義長
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大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名大宝寺氏17代当主。武藤義氏とも呼ばれ、越後国上杉謙信と誼を結び上杉姓を名乗ったこともある(山形県史)。大宝寺氏の当主であると同時に羽黒山別当職も務めた。目次

1 生涯

1.1 家督相続と三郡掌握

1.2 拡大政策と影

1.3 屋形号と悪屋形

1.4 情勢の悪化、そして最期


2 脚注

3 出典

4 主要家臣

5 画像

6 その他

生涯
家督相続と三郡掌握

天文20年(1551年)、大宝寺義増の長男として誕生する。

往時は室町幕府より出羽守や左京大夫を拝命するなど出羽国において大いに権勢を揮った大宝寺氏であったが、この頃の大宝寺氏は澄氏の代から続く庶流の砂越氏との内紛によって居城を焼失するなどし、仙北小野寺氏や地理・伝統的に繋がりのあった越後の本庄氏上杉氏と通じることで命脈を保つほどにまで落ち込んでいた。

永禄11年(1568年)、本庄繁長甲斐国武田信玄の誘いによって上杉氏に叛いた際、父・義増も盟友として本庄氏に加担する。しかし、上杉氏に軍を差し向けられ降伏・臣従し、和睦の条件として義氏は春日山城に人質として送られた。永禄12年(1569年)、父の隠居により藤島城主・土佐林禅棟の後見を受け、尾浦に帰参し家督を相続する。

土佐林氏は、出羽南部日本海沿岸地域を中心に親上杉派を統率し、家中での主権を握っていた。元亀元年(1570年)、土佐林氏と関係の深い越後国人・大川長秀が尾浦城に攻め込むと、義氏と禅棟は対立。義氏は本庄繁長を通じて上杉謙信に調停を依頼し事態を収拾させた。するとその翌年の元亀2年(1571年)に、今度は禅棟配下の国人・竹井時友が反乱を起こし谷地館に篭城する。義氏はこれを機とし挙兵。土佐林氏・反大宝寺勢力を徹底的に討伐し、弱った家中を軍政の面で縛り上げ、出羽のうち田川郡櫛引郡遊佐郡の3郡を手中に収めるなど大宝寺氏往来の勢力を復権させることに成功した。義氏20歳での成業である。

なお、大宝寺氏は大泉荘の地頭出身であり、かつ田川郡・櫛引郡南部がこの大泉荘に含まれたため、領国を荘内と呼んでいた。そして義氏の蹟により遊佐郡までを治めたため、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至るまでの地域[1]庄内地方と呼ぶに至った。
拡大政策と影

義氏の次なる目標は鳥海山を越えたむこうの由利郡であった。義氏は由利十二頭の諸将と関係を結び、仙北の小野寺氏と綿密に連携を図りながら、由利郡に介入してゆく。また、最上郡では最上氏の内乱である天正最上の乱が勃発。義氏も縁戚関係のある大江氏庶家・白岩氏との関係で最上義守派として介入を試み、天正2年(1574年)に親義守派が属する伊達氏と盟約を結ぼうとしたが拒否され実現には至らなかった。

積極的な外交政策を展開し庄内地方に権威を振るった義氏であったが、圧倒的な軍事力、そして上杉謙信との関係が背景にあることによるものであった。しかし天正6年(1578年)、頼みとした上杉謙信が急死すると、家臣の国人衆である来次氏秀が突如謀反を起こした。この謀反は鎮圧されたものの、隣国の最上氏が勢力を拡大させていた事もあり、義氏は氏秀に対し知行を加増して手懐けさせざるを得なかった。また、謙信の死後に越後ではお家騒動・御館の乱が発生し、義氏は伊達氏・蘆名氏との協調を重視し景虎を支持したが、本庄繁長は景勝を支持する。ここにおいて両者は敵となり、義氏は上杉氏への繋がりを失ってしまう。
屋形号と悪屋形

この事態を打開すべく義氏は天正7年(1579年)、天下人であった織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じることで後ろ盾を得ようとした。


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