大宛
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大宛(呉音:だいおん、漢音:たいえん、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Dayu?n)は、紀元前2世紀頃より中央アジアフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。大宛(だいえん)とは固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大なオアシスという意味らしい[1]。しばらく中国史書では大宛という名を使用したが、『魏書』以降はフェルガナの転写と思われる洛那国[2]・破洛那国[3]・?汗国[4]・抜汗那国[5]・?捍国[6][注釈 1]などが使用された。
歴史
張騫以前

紀元前129年頃に前漢張騫が訪れるまで、この地(フェルガナ)は史上に知られていなかった。それは、紀元前6世紀以降のアケメネス朝にしてもアレクサンドロス3世(大王)にしても、ヤクサルテス川(シル・ダリア)を越えてこの地にまで踏み込むことがなかったためであり、ましてや中華王朝がこの地に進出することがなかったためである。しかしながら考古学上、紀元前2千年代からこの地には青銅器時代を迎えた定住民が暮らしており、文化的には生命樹ジッグラトといったメソポタミア文明の影響を受けていたことがわかっている[7]。やがて、この地にイラン系の人々(いわゆるアーリア人サカ人)が南下して移住することとなり、大宛建国に至る。
張騫の西域訪問紀元前2世紀頃の中央アジアの地図

前漢武帝は、月氏と手を組んで匈奴を挟撃しようと考え、月氏への使者を募集した。そこで、郎であった張騫が使者となり、匈奴人の堂邑の甘父ら100人あまりとともに隴西を出た。しかし、すぐに匈奴に捕まってしまい、10年あまりも抑留された。ある時、監視が緩まったのを機に脱出し、西へ行くこと数十日、大宛に到着した。

大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の康居まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である大月氏まで送ってやった。

ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは西域南道を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。張騫たちは匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ太中大夫・奉使君にとりたてられた[8]
二度の大宛討伐詳細は「漢宛戦争(英語版)」を参照

やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の汗血馬を愛好するようになった。武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、李広利を弐師将軍に任命し、太初元年(前104年)、大宛討伐を行った。しかし、蝗害飢餓で一つの城も落とすことができず、敦煌まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。

しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年(前102年)、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。

大宛の軍は漢軍を迎え撃ったが、漢軍の方が優勢だったので、籠城することにした。李広利は城の水源を絶ち、40日余りも包囲した末、外城を破壊し、大宛勇将の煎靡を捕虜とした。

汗血馬を差し出すのを拒んだために、このような事態になったので、大宛貴族たちは相談して大宛王の毋寡を殺し、漢軍にその首と汗血馬を差し出し、停戦を申し込むことにした。李広利らはこれを承諾し、軍を引いた。大宛王が殺されたので、漢は大宛貴族であった昧蔡という者を新たな大宛王とした。しかしその後、大宛貴族たちは昧蔡を売国奴として殺害し、毋寡の弟の蝉封を大宛王に即位させ、その子を人質として漢に送った[9][10]
後漢の時代1世紀のタリム盆地

後漢光武帝の時代、西域諸国の中で最も強勢を誇った莎車国王の賢は、大宛からの税が少ないとし、自ら諸国の兵数万人を率いて大宛を攻め、大宛王の延留を降伏させ、新たに拘弥王の橋塞提を大宛王とした。しかし、康居がこれを攻撃し、橋塞提が逃亡したので、賢はふたたび延留を大宛王に戻した[11]
西晋の時代

西晋太康6年(285年)、武帝司馬炎は遣使の楊を送り、藍?を大宛王に封じた。藍?が死に、その子の摩之が立ち、朝貢して汗血馬を献じた。

「大宛」の名は西晋まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である「破洛那」などが用いられるようになった[12]
南北朝時代5世紀のタリム盆地の勢力図

北朝の時代は破洛那国と呼ばれ、北魏太和3年(479年)、北魏に遣使を送って汗血馬を献じた。


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