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大安寺
本堂
所在地奈良県奈良市大安寺2丁目18-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分4.8秒 東経135度48分45.8秒 / 北緯34.668000度 東経135.812722度 / 34.668000; 135.812722
大安寺(だいあんじ)は、奈良県奈良市大安寺二丁目にある高野山真言宗の寺院。山号はなし。本尊は十一面観音。開基は舒明天皇と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代から平安時代前半までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。現在は癌封じの寺として有名である。 縁起によれば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ、「熊凝道場」とも)が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称した時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。 平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末から近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。 現代は癌封じなどにご利益(りやく)がある寺となっている。参拝者が、竹筒に入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、奈良時代末期の光仁天皇の故事にちなむと伝承されている[1]。 当寺の歴史については、天平19年(747年)の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう、以下『大安寺資財帳』)と正史『日本書紀』『続日本紀』の記述が根本史料となっている[2][注釈 1]。これによれば、病床の聖徳太子を田村皇子(後の舒明天皇)が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として造営してほしいと告げた、という[3]。「大寺」とは文字どおり「大きな寺」の意味でもあるが、原義は「私寺」に対する「官寺」の意である[4]。 「熊凝精舎」は、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。石田茂作は「熊凝精舎 = 額田寺」説をとったが、福山敏男は、熊凝精舎を額田寺に当てる説は鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』に初めてみえることなどから、熊凝精舎の実在自体を疑問視し、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみる。平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから、額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている[5]。 田村皇子は太子の意向を承けて、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた。『日本書紀』の同年七月条には「今年、大宮及び大寺を造作(つく)らしむ」「則ち百済川の側(ほとり)を以て宮処とす」とある。これが百済大宮と百済大寺である[3]。百済大寺は日本最初の官寺であり、国の大寺として尊崇を集めた[6]。『日本書紀』によれば大化元年(645年)8月には孝徳天皇が大寺に使いを派遣して十師を定め、このとき恵妙(慧妙とも)が百済大寺の寺主となっている[7]。 百済大寺の位置は長年不明であった。奈良県北葛城郡広陵町の百済寺を百済大寺跡とする説は江戸時代からあったが、飛鳥から遠く離れた同地と舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡の発見や古瓦の出土もない[8]。奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)による調査の結果、1997年(平成9年)に奈良県桜井市南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。この寺跡は藤原宮跡の東方、かつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。その後、2002年(平成14年)まで継続された発掘調査では、吉備池廃寺の伽藍の様子が明らかになった。吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている[9][注釈 2][注釈 3]。 天武天皇2年(673年)12月17日、御野王(「みののおおきみ」で美濃王と同じ)と紀訶多麻呂が造寺司に任命され、この時に寺を百済の地から高市の地に移したとあり(『大安寺資財帳』)、『日本書紀』の同じ日の条に、美濃王と紀訶多麻呂が造高市大寺司に任命されたとある。この前年の天武天皇元年(672年)は、壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が勝利している。高市に寺を移した年は、天武天皇の父舒明天皇の三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌にあたることが指摘されている。 『日本書紀』『大安寺資財帳』には、天武天皇6年(677年)9月、この高市の大寺を改称し、大官大寺としたと見える[10]。その後も文武天皇(在位697年 - 707年)の治世に至っても大官大寺の堂塔の造営が行われている状況が窺える[11]。
概要
歴史
創建
百済大寺百済大寺跡に比定される吉備池廃寺跡(桜井市)
高市大寺
大官大寺大官大寺伽藍の模型、東側より見る。橿原市藤原京資料室蔵藤原京1/1000模型の一部
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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