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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。大宋宣和遺事
『大宋宣和遺事』(だいそうせんないじ)は、中国北宋王朝末期の皇帝徽宗の一代記の形式をとった説話集である。単に『宣和遺事』ともいう。宣和は徽宗皇帝治世終盤の年号(1119年 - 1125年)。
講談形式で歴史を語る「講史」に近く部分的に白話(口語)の文体で語られている。小説的な要素もあるが、基本的にはそれまでの説話・講談本・史書から逸話を抜き出してまとめた書である。ただし整理が十分でないため、前半と後半では文体や構成法がかなり異なるなど一貫性はない。南宋以来、都市部で流行した講談のためのネタ本として作られ、本書に載る逸話を講釈師がそれぞれ話を膨らませて語るための元になったのではないかと思われる。そのため史書には載らないような逸話も収載されており、講談や戯曲を元に形成されたと思われる『水滸伝』などの白話小説の成立過程において、この書は重要な役割を担ったと考えられており、とりわけ水滸伝成立史の研究にとって避けては通れぬ資料となっている。 『宣和遺事』の作者は不明である。あるいは上記のような本書の性格上、単独の作者によるものではなく、いったん成立したものに、別人が後から幾度も逸話を付け足されていったものとも思われる。後述の水滸伝との関連部分などは他の箇所から文体的にも物語的にも独立しており、後から挿入された形跡が濃厚である。 清代の蔵書家・黄丕烈(こうひれつ、中文
成立年代
近年では(これも『水滸伝』等の小説に大きな影響を与えた)戯曲のうち、明初に成立したことが明らかな「豹子和尚自還俗」という作品の中に登場する英雄の序列が、元曲における水滸戯と『宣和遺事』・『水滸伝』の中間過程と推察されることから、『宣和遺事』も明初に成立したのではないかとする説(佐竹靖彦)も登場している。このように本書の成立に関する説は、南宋末から明初までおよそ1世紀もの差があるが、いずれにしろ『宣和遺事』の成立時期は、小説『水滸伝』自体の成立年代にも絡むため、非常に重要な問題といえる。 中心となるのは神宗・徽宗・欽宗の3代にわたる宋朝宮廷の逸話と歴史の流れである。 歴代皇帝が荒淫から国を滅ぼす例が語られる序盤から始まり、北宋歴代皇帝の略史、王安石の新法を経た後、文化の爛熟する徽宗時代に入り蔡京の権力掌握、首都開封の繁栄などが語られる。いっぽうで徽宗は遊女・李師師と遊興にふけり、道士・林霊素に過度に傾倒するなど国政を省みることは全くない。栄華は長く続かず、やがて方臘の乱や北方民族の侵入を招き、靖康の変で徽宗・欽宗父子が満洲(金国)に連行され、悲惨な結末をたどるいきさつを述べる。最終的には高宗が難を逃れて河南で即位し、都を杭州(臨安)に定めるまでを記す。 『宣和遺事』の書名からも明らかなとおり、本書における最重要人物は「道楽天子」とも称された徽宗皇帝であり、徽宗時代の記述が全体の8割ほどを占めている。全体としては国を誤った君主と、売国的な佞臣らを糾弾する思潮によって貫かれている。 前半部、徽宗皇帝治世の出来事として、梁山泊の盗賊に関するエピソードが記載されている一部分があり(分量としてはそれほど多くはない)、登場人物の顔ぶれなどが、後の小説『水滸伝』の登場人物とほとんど一致する(ただし一致するのは名前のみで、人物設定や役柄などはかなり異なる)。そのため、水滸伝が一つのまとまった小説として成立する以前に『宣和遺事』が有力な素材の一つとなっていることは間違いない。なおこの部分は、他の部分からストーリー的にほぼ独立しており、ここでの登場人物は他の部分には登場しない。
記事内容
水滸伝との関連詳細は「水滸伝の成立史」を参照
梁山泊説話の内容