大学受験ラジオ講座
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大学受験ラジオ講座(だいがくじゅけんラジオこうざ)は、文化放送やラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)など全国のAM・FMラジオ放送局で放送された番組。旺文社一社提供。通称「ラ講」(ラこう)。
概要

旺文社の創業者赤尾好夫が、「大学受験教育の地域格差を放送を通じて解消していく」という理念を掲げ、自ら設立に関与した日本文化放送協会(現・文化放送)に企画を持ち込んで、1952年(昭和27年)3月31日の開局と同時に放送開始。

日本短波放送(NSB)が開局した1954年(昭和29年)8月からは、そちらでも放送が始まり全国での聴取が可能になった。後に、同じく教育の地域格差解消をテーマに『百万人の英語』が立ち上げられて、そちらも文化放送と日本短波放送で同時放送されるに至った。基本的には毎日1講座30分単位で2本放送された。「百万人の英語#概要」も参照

ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲として使用された(ただし末期はポップ調にアレンジ)が、放送開始・終了[注 1]、講義開始前・終了時のアナウンス、旺文社の生CMは各局それぞれで行っており、あいさつが異なるケースさえみられた。放送時間もエリアも重複するCBCラジオ岐阜放送では、テーマ曲が2回流れる岐阜放送のほうがやや本編が遅く放送されていた。

なお例年12月31日は、AM全局とラジオたんぱで「ゆく年くる年」が放送される関係で、放送休止(休講)となっていた。詳細は「ゆく年くる年 (民間放送AMラジオ)」を参照
歴史
番組初期から中期の展開

日本短波放送での放送開始で全国どこでも聴ける番組となり赤尾の掲げた目標は一応達成されたが、放送による一斉授業形式ならではの問題も抱えていた。リスナーとなる受験生一人一人の学習進度や志望校に関係なく、同じ講義を一律に送り出さなければならなかったのである。旺文社は当初、月刊でラジオ講座のテキストを発行し、それに先輩格の大学受験総合誌『蛍雪時代』を含めた形で受験生のフォローアップを行うことを考えていた。昭和30年代には、旺文社が大学受験産業でほぼ独占的なシェアを獲得していて、他の教育形態もまだそれほど伸びていなかったため、このスタイルで十分成り立った。

ところが1961年(昭和36年)、増進会出版社(現・増進会ホールディングス)が難関大学志望の高校生を対象にした国内初の個別通信添削指導『Z会の通信添削』をスタートさせ、ラジオ講座は強力なライバルと出会うことになった。1969年(昭和44年)には、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)が『進研ゼミ高校講座』の前身『通信教育セミナ』を立ち上げ、旺文社も『旺文社ゼミ』の名前で追随。旺文社は、ラジオ講座を聴取し、旺文社ゼミも併せて受講することで、学習効果の増大を狙った。

一方で、開始当初から昭和30年代には、大半のネット局で22 - 24時のプライムタイムに放送されていたが、昭和40年代以降、この時間帯が若者向けになるにつれて、ほとんどのラジオ局で放送時間は午前5時台へと追いやられた。このため受験生個人で毎日の放送をタイマー録音し、後で都合のいい時に聴く習慣がついていった。1980年(昭和55年)10月改編以前で夜間放送だったのは、ラジオたんぱと文化放送(23:30 - )、およびラジオ関西(23:35 - )だった。当時、文化放送の22時以降は「夜のニュース・パレード」や外郭団体(日本英語教育協会)経由で実質旺文社提供だった『百万人』などの番組が並んでいた。

1982年(昭和57年)以降、地方で民放FM局の開局が続き、AMラジオ局で放送されない地域で5:00 - 6:00に放送され、放送形態の垣根を越えて放送される番組となった。そういった地方の学生のために、旺文社は希望する高校に講義放送のテープ(2講義分を収録、放送月初に送付し翌月回収のため、オンエア前や聞き逃した講義を聴くことが出来た。ただし蛍雪アワーを除く)を無償で貸し出したり、後にはラジオ講座を編集したテープを販売していた。

しかし、後期には通信添削市場の成長による受験産業の多様化に加え、文化放送の編成政策に2度まで翻弄される事態となり、次第に番組の立ち位置が怪しくなっていく(後述)。
文化放送での野球放送への影響

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当番組の存在は、旺文社が大株主となっていた文化放送で長年、編成上のネックとなっていた。特に1980年代以降、文化放送が平日の野球中継に参入すると、深刻な影響を及ぼすようになっていった。
てるてるワイドとライオンズナイター

1980年(昭和55年)10月改編で文化放送初の本格的な夜ワイド『吉田照美のてるてるワイド』が立ち上がると、24時までの放送枠を確保するため月曜から金曜の講座が夕方の18:30 - 19:30に移動した。土曜と日曜の講座は『ホームランナイター』の絡みで、平日と放送時間が異なることになる(24:30 - 25:00)。さらに1982年(昭和57年)4月改編で『ライオンズナイター』(当時は野球情報バラエティ番組として放送)が立ち上がると、ラ講がネックとなり試合開始から終了までの放送を求めるリスナーの声に応えられないという新たな問題が沸きあがる。「文化放送ライオンズナイター#1982 - 1984年 野球情報バラエティ番組時代」も参照

1984年(昭和59年)4月改編で『ライオンズナイター』が放送時間拡大になると、ラ講は直後に放送されていた『百万人』とセットで30分繰り上がって18:00 - 19:00の放送に変更、翌1985年(昭和60年)4月改編で『ライオンズナイター』が他局と同じ一般的な中継スタイルを取り入れると、試合開始からの放送に対応するため再び深夜に戻され、平日と週末の放送時間が再び統一された(全曜日24:30 - 25:30)。詳細は「文化放送ライオンズナイター#1985 - 1992年 「はっきりいってライオンズびいきです!!」」および「吉田照美のてるてるワイド#エピソード」を参照
延長なしのライオンズナイター

当時のプロ野球セ・リーグが試合開始後3時間20分、パ・リーグが3時間を超えて新たなイニングに入らないルールがあったため、18時開始の西武ライオンズ球場での西武主催ゲームを中継することを前提に、ライオンズナイターは21:30までとして延長なしと設定された。これにより、平日夜のワイド番組は定時から放送でき、タイマー録音する学生への配慮やテキストへの時間記載などで24:30のスタートを変更できなかったラジオ講座の放送にも支障を与えないという編成対策が採られた。ライオンズの親会社の西武鉄道西武ホールディングスの子会社)が筆頭株主になったNACK5が開局して最初のシーズンとなる1989年(平成元年)に限り、21:30以降試合が続く場合は同局で試合終了までリレー放送する形とした。「東京っ子NIGHTお遊びジョーズ!!#野球放送との兼ね合い」および「NACK5 SUNDAY LIONS#備考」も参照

ただし、優勝決定試合は例外的に試合終了まで放送することになっていた。1988年(昭和63年)10月19日のパ・リーグ優勝を賭けたロッテオリオンズ近鉄バファローズのダブルヘッダーはリスナーの抗議殺到を受けて第1試合途中から『文化放送緊急スポーツスペシャル』として第2試合終了まで放送したが、夜ワイド番組『お遊びジョーズ』は後続のラ講のあおりを受けて短縮されるという、当時の文化放送では極めて異例の対応がなされた。詳細は「10.19#ダブルヘッダー第2試合」および「戸谷真人#エピソード」を参照
野球延長容認へ

『ライオンズナイター』は1990年(平成2年)のNPBのルール改正でパ・リーグの試合時間制限が4時間に延長されると、最大で21時50分までの放送となる。23時台にあったNRN全国ネットの花王一社提供枠が終了した後の1992年(平成4年)からは22時以降も夜ワイドの放送時間を短縮するスタイルが導入され、試合終了までの完全放送が実現されるようになった。「パシフィック・リーグ#時間・回数制限」および「セントラル・リーグ#回数・時間制限」も参照

いち早く試合時間無制限に切り替わっていたセ・リーグの試合が中心の『ホームランナイター』も最大延長を22時から22時30分に変更したが、後続に『さだまさしのセイ!ヤング』『東京ライブミックス』といった生放送番組があること、さらにはそれら番組の出演者やスポンサー・『セイ!ヤング』に至っては同時ネット局の存在も障害となり、試合終了までの放送はできなかった。
Jランドへの転換と失敗


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