大塩平八郎
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 凡例大塩平八郎
大塩平八郎正高像(菊池容斎作、大阪城天守閣蔵)
生誕寛政5年1月22日1793年3月4日
死没天保8年3月27日1837年5月1日) (45歳没)
別名正高、後素
通称:平八郎
号:中斎
幕府江戸幕府:大坂町奉行組与力
父母父:大塩平八郎敬高
妻妾:ゆう / ひろ(茶屋大黒屋和市の娘)
子養子:格之助
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大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者大坂町奉行与力大塩平八郎の乱を起こした。

通称は平八郎、は正高、のち後素(こうそ)、は子起[1]。号は連斎・中軒・中斎[1]家紋は揚羽。大塩家は今川氏の末流と言われ[1]、本家は尾張藩の馬廻として仕えた。その分流が抱席の大坂東町奉行組与力となり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる[2]大坂天満に生まれた[1]。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。
生涯
大坂町奉行組与力

14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、25歳で与力となる[2]。奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行所与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発したり、切支丹を摘発したり、破戒僧を処断したりなど[1]、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。奉行所内では大塩を疎む者もいたが、上司の東町奉行・高井実徳は大塩を重用した[1]。前述の弓削新右衛門の一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが「三大功績」としている[注 1]
陽明学者

文政7年(1824年)、独学で陽明学を修めた大塩は自宅に洗心洞を開く[2]文政13年(1830年)の高井の転勤とともに与力を辞し[1]、養子の大塩格之助に跡目を譲った[2]。隠居後は学業に専念し、洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者・佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。大塩の陽明学は「知行合一」を中心思想に据えたもので、「中斎学派」と呼ばれる学派を形成するまでに成長した[2]。大塩の存命時は寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされたため、もともと狷介人である大塩は朱子学者からの不毛な論戦に時間を取られることを避けて、来客にはほとんど面会せず、送られてきた書簡への返信もしなかった。
飢饉対策

天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年(1834年)夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年(1837年)夏にかけてが特に酷かった。

前者の際には、大坂西町奉行の矢部定謙が大塩を顧問のごとく遇し、また矢部の配下に内山彦次郎のような経済の専門家が揃っていたため、無事切り抜けた。

しかし後者の際には、矢部は勘定奉行に栄転しており、後任の大坂東町奉行跡部良弼は幕府の将軍宣下の儀式費用のために大坂から江戸への廻米を強行し[3]、跡部は与力の内山彦次郎を兵庫に遣わして買米にあたらせ、その米を江戸に送るなどの暴政を行った[3]。これにあわせて、豪商が米を買い占めたため、米価は高騰した[1][3]。跡部は江戸への回米を徹底するため、京から51程度の米を買いに下る者をさえ召し捕えるほどであったため、京の都は餓死者で溢れた。自ずと流民は大坂に流れ込み、大坂市中の治安は悪化した。

大塩は大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行ったが[1]、献策は全く聞き入れられなかった[1]。大塩は豪商・鴻池幸実に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかけたが、幸実が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}儒学は孝と忠を重んじるが、儒者たる大塩が認めた『檄文』からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、主君たる幕府への諫言を行う意図が明らかに読み取れる。このスタンスは、陽明学徒の主たる特徴である。[独自研究?]
乱とその後

蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出た中、同年9月、大塩は「檄文」を書き上げて極秘に印刷させた[2]。蜂起が悟られないように、板木は32分割されていたという[2]。やがて、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始した。

天保8年(1837年)2月に入って、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱[1][4]。大塩は蔵書を売り払ったお金を事前に窮民へ分け与え、挙兵への参加をうながした[5]。しかし、平山助次郎と吉見九郎右衛門の密告によって大坂町奉行所に蜂起が露顕[2]。蜂起は実行したものの、当日に鎮圧された[1][2][5]。乱による火災は翌日まで続き、1万世帯以上が焼け出された[1]。この火事で大坂の5分の1が焼かれ、俗に大塩焼けと称された[2]


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