大報恩寺
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この項目では、京都の寺院について説明しています。南京に存在した寺院については「大報恩寺 (南京)」をご覧ください。

大報恩寺

本堂(釈迦堂、国宝)
所在地京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町[注釈 1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分54.73秒 東経135度44分23.65秒 / 北緯35.0318694度 東経135.7399028度 / 35.0318694; 135.7399028座標: 北緯35度1分54.73秒 東経135度44分23.65秒 / 北緯35.0318694度 東経135.7399028度 / 35.0318694; 135.7399028
山号瑞応山
宗派真言宗智山派
本尊釈迦如来重要文化財
創建年承久3年(1221年
開山義空
別称千本釈迦堂
札所等新西国三十三箇所第16番
京都十三仏霊場第8番
ぼけ封じ三十三観音第2番
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第2番
文化財本堂、木造六観音像6躯、木造地蔵菩薩立像(国宝
木造釈迦如来坐像、木造十大弟子立像10躯ほか(重要文化財)
公式サイト ⇒千本釈迦堂 大報恩寺
法人番号2130005002191
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大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派寺院山号は瑞応山(ずいおうざん)。本尊釈迦如来[1]。千本釈迦堂と通称される。霊宝殿は新西国三十三箇所第16番札所で本尊は六観音である。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として護持された。
歴史

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、「猫間中納言」と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年[2]

本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている(後述)。倶舎(くしゃ)・天台真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。

大報恩寺には近隣の北野社(北野天満宮)境内にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。足利義満明徳の乱山名氏清の乱)の戦没者と氏清を悼んで、乱の翌年の明徳3年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始し、応永8年(1401年)に北野経王堂願成就寺を建立した。

経王堂は文安元年(1444年)の文安の麹騒動で北野社と共に焼け落ちたが、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼片桐且元を奉行として北野社を復興した際に、共に再建されている。しかし、寛文11年(1671年)には老朽化のために規模を縮小されて改築されている。さらに、明治時代となって神仏分離令が出されると、北野天満宮にある仏堂は解体されていき、経王堂は当寺に観音堂として再び規模を縮小して移築された。経蔵に伝来した一切経、傅大士(ふだいし)及二童子像、?太鼓縁などは大報恩寺に保管されている[3]
おかめの物語詳細は「おかめ」を参照おかめ像

本堂を造営する際、大工の棟梁であった長井飛騨守高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている[4]
境内本堂平面図釈迦堂内の多数の面、人形の一つ

本堂(国宝) - 入母屋造檜皮葺。桁行(正面)五間、梁行(側面)六間で、正面に一間の向拝を設ける(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。安貞元年(1227年)の上棟。京都市内では数少ない中世建築で、洛中[5]では現存最古の建物である。堂正面は五間とも戸を構え、側面は手前の一間を両開戸、次の間を蔀戸、後寄りの四間を引違い戸とする。平面構成は、方三間の内陣の前方に梁間二間の庇(外陣)を付け、内陣の側面と背面には一間幅の庇を付す。内陣は中央の方一間を四天柱で囲まれた内々陣とし、ここに須弥壇を設け、本尊の釈迦如来坐像を安置する厨子を置く。一般的な密教仏堂の平面と異なり、本尊の周囲を行道できる常行堂系の平面となっている[6]

庫裏

霊宝殿 - 本堂の西側奥に建つ。本尊釈迦如来坐像以外の重要文化財仏像はここに安置されている。また、新西国三十三箇所第16番札所で六観音を祀る。

木造十大弟子立像 10躯(重要文化財)(附:像内納入品) - 釈迦の高弟10人の像で、10躯完存する。像高94.4 - 98.0センチメートル。銘記により、建保6年(1218年)から承久2年(1220年)にかけて快慶一門により制作されたことが判明する。目?連像の足?及び優婆離像像内に「巧匠法眼快慶」の銘があり、快慶本人が直接担当したのはこれら2躯であるとみられる[7]

木造六観音像 6躯(重要文化財)(附:像内納入経) - 肥後別当定慶康運)作。六観音とは六道輪廻の思想と観音信仰が日本で結びついたもので、六種の観音が六道に迷う衆生を救うとされている。真言宗系の六観音は聖観音地獄道)、千手観音餓鬼道)、馬頭観音畜生道)、十一面観音阿修羅道)、准胝観音人道)、如意輪観音天道)で、大報恩寺には6躯一具が完存している。


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