大坂三郷
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『大阪圖(元祿十六年)』(「大阪市史 附図 再版」1927年(昭和2年))

大坂三郷(おおさかさんごう[1])は、江戸時代大坂城下における3つの町組の総称。北組、南組、天満組の3組から成る。

江戸時代の「大坂町」とはこの3地域を指し、現在の大阪市北区の南半分くらいから中央区全体に西区の東半分くらいを足した範囲に当たり、天満より北や、難波・天王寺あたりの地域は含まれない[2]大坂城代・京橋口定番・玉造口定番・大坂町奉行・大坂代官などの役人の居住地や寺院神社の土地などは大坂三郷には含まれず、大坂三郷はあくまで町人の住んでいる地域を指した[2]
概要

現在の大阪府大阪市中央区の大半・西区の東部・北区の南部を中心に広がり、浪速区大正区港区此花区福島区都島区天王寺区の各一部にも及んでいた。

おおむね本町通を境に北組と南組に分かれ、大川古川以北が天満組となる。ただし、堀江は3組錯綜、玉造下船場阿波堀川以南は北・南2組錯綜、南端の難波新地日本橋が北組といったように、新地開発で後に拡張された地域などはこの通りではない。初期には伏見組の存在が確認されるが、次第に北組と南組に編入されて消滅したと思われる。城下の拡張が落ち着きを見せる18世紀後半の天明年間における町数は、北組250町・南組261町・天満組109町。

三郷各組から長にあたる惣年寄が選出され、惣会所とその配下となる惣代などが置かれた。各町では町年寄が選出され、町会所とその配下となる町代などが置かれており、組は町と大坂町奉行との中間組織となっていた。惣会所の所在地は、北組が平野町3丁目、南組が南農人町1丁目(現・農人橋1丁目)、天満組が天満7丁目(現・天満4丁目)。また、毎年各組毎に宗門人別改帳を寺社役与力に提出する「巻納め」という行事があり、北組は本願寺津村別院(北御堂)、南組は真宗大谷派難波別院(南御堂)、天満組は真宗大谷派天満別院(佛照寺)で行われた。
町定

大坂の町では、日常生活に関わる様々な問題を処理しその経費を負担していた。道路や溝の管理、火事の対策、橋の修復、捨て子や行倒れ人の世話など身近な生活空問の管理は全て町内が行うことになっていた。また町内では正月初穂愛宕山八幡祇園等に納め、三郷の玉造稲荷朝日宮高津宮四天王寺の祭礼行事にも出金している。その他、相撲の札を買ったり、勧進能狂言尽の代まで町内が出していた。このように宗教・文化行事も含めて、町内のもつ公共的機能は現代とは比べものにならないほど大きなものがあった。

近世大坂では町の運営に関して「町内式目」、「勘定仕法」と呼ばれる法を定め、共同生活を円滑に運営する為に色々の申し合わせを盛り込んでいた。京都と同じように大坂でも同業種や特定の職業の禁止事項が注目される。

船場の中心部・道修町2丁目の文政7年(1824年)の町内式目では、家屋敷の売買にあたって、町に不似合いな人に売買しないとか、不特定多数の人間が集まる客商売等に借家を貸さないことを定めている。他にも町によっては騒音を出したり、出火の危険がある職種を規制している例がみられ、町内の生活環境の保全に留意していた。

町内式目には町家と町並みに関する規定もみられる。道修町2丁目では、町の地形が東から西に向かって低くなっているので、家屋の基礎工事をする際には上流、すなわち東隣の敷地より1寸下がりに地固めをすれば水はけにまつわるトラブルもなくなり、また自然と町並みも整うと定めている。白髪町では、家屋敷の普請の際は敷地を整地する前に町内の了承を得、年寄・月行事・隣家の家主そして大工の立会いのもとに、地面の高さを決めている。そして少しでも高く築いた場合は、家の普請が完成した後でも地面を下げさせると定めている。

また町家の表構えについて定めたものがある。道修町2丁目の町内式目には「惣て表通り拘り候繕いにても、我がままに仕まじく候事」と定めており、突飛なデザインを互いに戒め、近隣との協調をうたっている。また、天保4年(1833年)の南米屋町2丁目の町内式目にも往来に庇や出店を張り出し、また荷物や干物、植木等をはみ出して置くことを禁止している。隣家と軒を接し高密度な居住地であった大坂では、共同生活を維持し生活や環境を守るためのシステムを町内単位で編み出していた。

大坂の「町定」のもうひとつの特徴は、「勘定仕法」といわれる負担方法が詳細に規定されていることである。例えば、年頭八朔奉行所への付け届け、神社の初穂料、半鐘打賃、溝凌の人足賃、町木戸、町橋の分担金等、公役・町役の内容と賦課方式が極めて詳細に記されており、また家持・表借家人・裏借家人の負担方法等にも細かい配慮がみられる。このような規定は京都の「町定」にも町の財政として数箇条登場するが、大坂ほど詳細であらゆる事態を想定して決められたものはない。住民の移動が激しく、かつ借家人の比率が8?9割を占める大坂の町内では「町」共同体を維持する為には、詳細に成文化した規定を用意して、周知徹底を図っていたことがうかがわれる[3]
明治以降『四大組町組編成圖(明治二年)』(「大阪市史 附図 再版」1927年(昭和2年))『大阪圖(明治五年)』(「大阪市史 附図 再版」1927年(昭和2年))

1869年明治2年)に東大組・南大組・西大組・北大組の4地域に再編され、のちに東区南区・西区・北区となった。
四大組設置から市行政区移行迄の沿革

出典:[4]

1869年(明治2年)6月2日 - 三郷を東西南北の四大組に分割。


1870年(明治3年)5月 - 各町組会議所の内、大会議所のみを残して他を廃止。中年寄、町年寄を以て議員とする。また各町組会所は議事所と改称し、後に連合事務所となる[注釈 1]


1871年(明治4年)5月、四大組から町組を廃止し、各大組毎に「いろは」分けの組を設置。組の下の数町は一まとめにされ番号が付けられる。


1872年(明治5年)3月7日、四大組79区各区域に、小学校を設置。


同年3月17日 - 市内各町名の分合改称を断行し、東大組159町23区、西大組183町22区、南大組92町14区、北大組98町20区の計532町79区に分割。外に付属地21箇所を設置。


同年5月 - 大区小区制施行後、大年寄は総区長となり、中年寄を区長、少年寄を戸長に改称。


1873年(明治6年)3月 - 小学区を74区に改正。


1875年(明治8年)4月30日 - 東大組を第1大区、南大組を第2大区、西大組を第3大区、北大組を第4大区に改称。


1879年(明治12年)2月10日 - 郡区町村編制法施行により、第1大区を東区、第2大区を南区、第3大区を西区、第4大区を北区に改称。


1880年(明治13年) - 伍人組[注釈 2]頭(伍長)の制度及び設置を廃止。


1881年(明治14年)8月 - 従来の各小学区を連合区に改め、東・南両区は9、西区は11、北区は8区の計37連合区に分割。


1884年(明治17年)6月 - 戸長役場管理区域の設定に伴い、学区を39区に改め東区を9、南・西両区を各10、北区を8区に編成し、1学区1校制となった。


同年7月1日 - 戸長役場管理区域が設定され、東区に9、南区に13、西区に11、北区に10の計43箇所の戸長役場を設置。


1886年(明治19年)3月31日 - 戸長役場が廃止され、その事務は区長の管轄となる。


1889年(明治22年) - 市制施行により各区を大阪市の行政区へ移行。連合区会は解散。

町名一覧

(以下は幕末に於ける町名[5]
大坂三郷北組

安土町1?3丁目

淡路町1?2丁目

淡路町切丁

阿波町

相生西町

相生東町

近江町

油掛町

油町1?3丁目

尼崎町1?2丁目

網島町

石津町

和泉町


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