大地震両川口津浪記
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大地震両川口津浪記(だいじしんりょうかわぐちつなみき)とは、大阪府大阪市浪速区幸町の、大正橋東詰めにある、自然災害伝承碑である。

幕末の1854年6月15日、畿内を襲った伊賀上野地震、同年11月4日・5日に安政東海地震安政南海地震と立て続けに巨大地震が発生し、それに伴う大津波大坂を襲い、幾多の死者を出した。

碑はこの被害状況を詳細に記述し、また148年前(数え年)の宝永地震にも大津波で多くの犠牲者を出したが「年月をへだてては伝へ聞く人もまれなるため」教訓を忘れ、生かされなかったがために、ふたたびおびただしい死者を出したことを悔い、後代の大阪市民に対し、将来発生するであろう津波や地震にあたり、被害を語り伝え、ふたたび同様の被害を出さぬよう警告している。

安政2年(1855年)設置。幾度か移設され、現在は浪速区大正橋東詰にある。記述にしたがって毎年の盆に墨入れを行なうなど、周辺住民による保守管理が170年ちかく続けられている。
文面「大地震両川口津浪記

嘉永七年六月十四日、子の刻ごろ大地震、市中一同驚き、大道、川端に行き、ゆり直しを恐れ、四五日心もとなく夜を明した。伊賀大和、けが人多しという。同十一月四日、辰の刻、大地震。前の例を恐れ空き地に小屋をかけ、老少多く小舟に乗る。翌五日、申の刻も大地震。家崩れ出火もあった。恐ろしいありさまもようよう治まる頃、雷の如く響き、日暮ごろ海辺一同に津波、安治川はもちろん、木津川とくにはげしく、山のごとき大浪がたち、東堀まで泥水四尺ばかりも入りこみ、両川筋に居あわす数多の大船・小舟の錨も綱もちぎれ、一時に川上へ逆のぼる勢いに、安治川橋、亀井橋、高橋、水分、黒金、日吉、汐見、幸、住吉、金屋橋などことごとく崩れ落ちた。また道へあふれる水にあわてて逃げまどい、橋から落ちこむ者もあり、大黒橋のきわに大船が横にせき止められ、川下からくる船、小舟を下じきにして乗りかかり、多く破船する。川岸の納屋等を大船が押し崩し、その物音、人の叫ぶ声、急場にて助け救うこともできず、水死、けが人がおびただしかった。船場島の内までも津浪寄せ来ると、上町へにげ行くありさま、あわただし。今から百四十八年前、宝永四年十月四日の大地震の節も小舟に乗り、津波で溺死する人多しという。年月をへだてては伝え聞く人もまれなるため、今あいかわらずおびただしい死者をだし、いたましきこと限りなし。後年もまた予測しがたし。大地震の節は津波がおこる事をかねてから心得、必ず舟に乗るべからず。また家崩れて出火もある、金銀証文は蔵におさめ、火の用心が肝要なり。川の内の船は大小に応じて水勢の穏やかなる所につなぎ換え、囲い舟は早々に高く引き上げ、用心すべし。かかる津波は沖から汐が寄せてくるばかりにあらず、磯近き海底、川底等からも吹きあがるもの、または海辺の新田、畑の中にも、泥水あまた吹き上げる。このたび大和の古市で池の水あふれ、人家を多く流したのもこのたぐいなれば、海辺、大川、大池の辺に住む人、用心あるべし。水勢は平日の高汐と違うこと、今の人はよく知るところであるが、後の人もこれを心得、かつ溺死者の供養かたがた、ありのまま拙文にて記し置く。願くば、心あらん人、年々文字よみやすきよう墨を入れたまうべし(送り仮名、句読点等一部現代表記)。」
背景2005年に整備が行われた状態の大地震両川口津浪記。奥に写っている茶色の部分は、石碑の内容を補足説明するケヤキ板の看板である。他にも、写真に写り込んだ看板が有るように、石碑を解説した看板が設置されている。
石碑建立前

京阪神地域では六甲変動と呼ばれる地殻変動が現在も進行している[1][注釈 1]

この地殻変動により、大阪平野は現在も沈降が続いている[2]。加えて、江戸時代などには新田開発のために大阪湾を干拓してきた歴史を有している[3]

なお、この石碑を理解する上で、もう1点知っておくべき内容として、南海トラフでは大規模な地震が繰り返されてきたという事実である。記録に残っている限りにおいて、684年の白鳳地震887年の仁和地震1096年の永長東海地震1099年の康和南海地震とで1組の地震、1361年の正平地震1498年の明応地震、他の地震とは異なり津波地震だったのではないかとも考えられている1605年の慶長地震が発生した[4]

そして、この石碑の碑文の内容とも関連性の強い、1707年の宝永地震1854年の安政東海地震安政南海地震も発生した[4]。参考までに、宝永地震と安政南海地震における大坂での被害は、いずれも地震動による被害よりも、津波の襲来による被害の方が多かったという点で共通性が有る[5]

ここで、宝永地震と安政南海地震とで、大坂に襲来した津波を、当時の大坂を流れる河川に架橋されていた橋が、津波によって破壊された範囲を比較してみると、宝永地震の際に襲来した津波の方が大きかった事が判っている[6]

宝永地震では、そのような強力な津波に襲われたのにもかかわらず、安政南海地震の当時の大坂の住民の多くには、地震後に津波が襲来する可能性の有る旨が、充分に伝承されていなかったと、この石碑の碑文にも記載されている[注釈 2]。なお、この石碑が建立された前後に、地震や津波を始めとして、様々な災害が発生した事も知られている[7]
伊賀上野地震による影響

安政南海地震で大坂が津波に襲われた、約半年前の1854年7月9日に大坂は伊賀上野地震による地震動に襲われた[8]。この地震の余震から身を守るために、当時の大坂では、しばしの間、住民が船上に避難していた[9][10]

そして安政南海地震の際にも、空き地などに逃げただけでなく、船上に避難した者が現れた[11][12]。このように船上に避難した事が、襲来した津波による大坂での死者を増加させた要因の1つであった[9]
石碑建立後

大地震両川口津浪記の石碑は、1855年7月に建立された[13][14]

南海トラフでの大規模な地震は、石碑の建立後、ここまでに挙げた地震以降にも、20世紀末までに、1944年の昭和東南海地震1946年の昭和南海地震が発生したものの[4]、これら20世紀に発生した南海トラフでの地震は、宝永地震よりも規模が小さく、さらに安政南海地震よりも規模が小さく、同様に、付随して発生した津波の規模も「宝永地震>安政南海地震>昭和南海地震」であった[15]

このため、昭和東南海地震よりも、大阪に震源が近い昭和南海地震ですら、大阪では軽微な津波被害しか発生しなかったものの、次に発生するであろう南海地震による津波が、大阪で昭和南海地震の程度であるとは限らない[16]

また、石碑の建立後も、大阪湾岸では埋め立てが行われた[17]。さらに、地下水の汲み上げを主因として、大阪市に加え周辺地域の広い範囲で、軟弱地盤が圧密沈下を起こした[18][注釈 3]

このような地盤沈下を受けて、台風などに伴う高潮の被害を警戒し、大阪湾の港湾部では大々的に盛り土が行われてきたものの[19]、それでも上町台地を除くと、ほとんどの大阪市の市域は標高が5mに満たない[20]

加えて、1933年に御堂筋線の一部が開業した事を皮切りに[21]大阪では地下鉄の開発も行われた。さらに、1957年12月に大阪で最初の地下街であるナンバ地下センターが開業したように[22]、地下街の開発が行われてきた[注釈 4]

以上のような要因により、高潮、河川の増水や集中豪雨などによる水害の他に、津波に襲われた場合にも、この大地震両川口津浪記が残る大阪平野は被害を受け得る[23]。そして、大阪湾岸には防潮堤や水門は整備されたものの、それらの設備が地震によって被害を受けた場合や、それらの設備を動作させられない事態に陥る可能性も指摘されている[24]


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