大善尊太
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大善 尊太(だいぜん たかひろ、1964年12月14日 - )は、大阪府大阪市浪速区出身で二所ノ関部屋に所属した元大相撲力士。本名は高橋 徳夫(たかはし とくお)。最高位は西小結(1994年3月場所)。現役時代の体格は身長188cm、体重160kg。得意手は左四つ、寄り、上手投げ血液型はO型。四股名は尊敬する同部屋の先輩大徹にちなんで付けられた。10代二所ノ関(元関脇・金剛)が育てた唯一の子飼いの関取でもあった。現在は、年寄富士ヶ根[1]。(二所ノ関部屋付年寄を経て、春日野部屋部屋付年寄となっている。)愛称は「徳」[2]

出身地が大阪場所の開催される大阪府立体育会館と同じ浪速区なので、厳密な意味での大阪場所の御当地力士である。

実家は3月場所が開催される大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、花屋を営んでいる。実父は時津風部屋所属の元大相撲力士で、菊葉山(きくばやま)の四股名で三段目まで昇進した。
経歴

浪商高校時代は野球部に所属し一塁の控え選手であった。そんな中、麒麟児に「相撲ならいつでも試合に出場できるぞ」と勧誘され、実父が力士であったこともあり二所ノ関部屋へ入門した。母親は非常に体が弱く30代半ばで総入れ歯に近かったというが、麒麟児から「徳が相撲取りになったら、お母さんは喜ぶぞ、元気になるぞ」と説得されたのが決め手になったという。母は高橋が力士になって元気が出たのか、その後病魔と闘いながら70歳過ぎまで生きた[2]1981年3月場所に初土俵1988年3月場所新十両。しかし2場所目の5月場所で故障してしまい幕下陥落。2年間ほど幕下に低迷したが、1990年11月場所で帰り十両を果たすと十両東5枚目で迎えた1991年9月場所には東6枚目の貴ノ浪と12勝3敗で十両優勝を争い、優勝決定戦の末貴ノ浪を押し倒して十両優勝を決めた。なお、本割では11日目に対戦して大善が勝っている。翌11月場所に貴ノ浪・武蔵丸鬼雷砲らと共に新入幕を果たす[1]。その後十両へ陥落したものの2度目の入幕で幕内に定着し、1994年3月場所で小結に昇進[1]。同年11月場所には横綱を破り初金星を獲得。1995年5月場所に十両に落ちてからしばらく低迷が続いたが、精進を怠らず1999年5月場所、25場所ぶりとなる再入幕を果たした[1]。これは当時における入幕間隔最長記録であった(後に和歌乃山が更新)。2001年5月場所では36歳4ヶ月で再入幕。これは戦後4位の記録(当時)だった。同年11月場所10日目、この日まで全勝の横綱・武蔵丸を寄り切って7年ぶり2個目の金星を挙げた。入幕同期の武蔵丸に対し、右上手出し投げから素早く体を寄せ、そのまま寄り切る相撲であった。このとき大善は36歳11カ月[1]、昭和以降年長記録6位、年6場所制度が確立して以降では最年長での金星であった。金星を獲得した際のインタビューでは「今が全盛期です」という名言を残した。この場所勝ち越せば殊勲賞であったが、6勝9敗と負け越して受賞を逃した[3]2002年3月場所には千秋楽に勝って10勝目を挙げれば敢闘賞受賞が決まっていたが、敗れて受賞はならなかった。2000年7月場所および2001年7月場所から2002年9月場所までの間は、幕内における最年長力士であった。

2003年1月場所、十両で4勝11敗と大きく負け越し幕下陥落が確実となったが、次の3月場所が御当所場所であるため1場所だけ幕下で取り、同場所13日目・当時十両の壽山と対戦し掬い投げで勝ち有終の美を飾った後、引退[1]。年寄・富士ヶ根を襲名し、二所ノ関部屋付きの親方として後進の指導に当たった。


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