大和_(戦艦)
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大和
豊後水道宿毛湾沖合付近を公試航行中の大和(1941年10月20日)
基本情報
建造所呉海軍工廠
運用者 大日本帝国海軍
級名大和型戦艦
建造費約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
艦歴
計画第三次海軍軍備補充計画
起工1937年11月4日
進水1940年8月8日
就役1941年12月16日
最期1945年4月7日沈没
除籍1945年8月31日[1]
要目
排水量64,000トン(基準)
69,000トン(公試)
72,809トン(満載)
全長263.0 m
水線長256.0 m
幅38.9 m
吃水10.4 m
ボイラーロ号艦本式缶12缶
主機艦本式タービン4基4軸
出力153,553馬力
最大速力27.46ノット(約50.8 km/h)[2](公試成績)
航続距離16ノット(約29.6 km/h)で7,200海里[3](13,334 km)
乗員竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装

新造時
45口径九四式46cm3連装砲塔[4]:3基
60口径三年式15.5cm3連装砲塔[5]:4基
四十口径八九式十二糎七高角砲:6基
九六式二十五粍機銃:8基
13mm連装機銃:2基最終時
45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲舷側 410 mm+15 mm(傾斜20度)
対水雷防御隔壁 205-75 mm
最上甲板 35-50 mm
主甲板 200-230 mm
合計甲板装甲 250 mm
バルクヘッド 340-300 mm
主砲防盾 660 mm
主砲側面 250 mm
主砲後面 190 mm
主砲天板 270 mm
主砲バーベット 560-380 mm
司令塔 500-380 mm
搭載機5機(カタパルト2基)
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大和(やまと)[6]は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦[7]。2番艦の武蔵とともに、史上最大の46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年12月16日就役、昭和20年(1945年4月7日天一号作戦坊ノ岬沖海戦)で沈没。
概要

大和型戦艦1番艦[7]である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は奈良県旧国名大和国に由来する[8]。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和[9]に続いて二代目。

大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。

太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役[10]1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)[11]。6月上旬のミッドウェー作戦が初陣となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃で小破した。修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦において第二艦隊第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の空母機による空襲を受け撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。大和・武蔵に共通する特徴については「大和型戦艦」を参照
沿革・艦歴
建造「大和型戦艦#建造」および「大和型戦艦#機密保持」も参照

ロンドン海軍軍縮条約の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[12]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[13]

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[14]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[15]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市呉海軍工廠造船船渠で起工[16]長門型戦艦1番艦長門天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[17]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[18]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[19]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[20]大和ミュージアム展示の戦艦大和の46cm砲弾。

機密保持は厳重を極めた[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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