大和絵
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大和絵(やまとえ)は、日本絵画の分野のひとつ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代以来発達した日本風の絵画のこと。「陸絵」「和絵」などとも表記され、「倭絵」「和画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。これら漢字表記の揺れを嫌い、ひらがなで「やまと絵」と表記することが多い。中世を通じて描き続けられ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、漢画の技法・主題を統合したと自称する(『本朝画史』)。
概念

「やまと絵」の語義は、時代によって3度変化している。

平安時代には、画題についての概念であり、日本の故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物・事物・山水に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。また「唐絵」も「やまと絵」も障子絵や屏風絵のような大画面の絵画についていわれた用語であり、絵巻や冊子の絵は「紙絵」と呼ばれた。次の「歴史」の項目で絵巻の作例が多く挙げられているが、それらは後世の分類によるものであり、平安時代にやまと絵といわれることはなかった。

14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、唐の様式を基本に北宋以降の中国絵画の様式も部分的に取り込んで確立された伝統的絵画様式をやまと絵と称するようになった。そのとき「唐絵」(漢画)は以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった[1]。そして土佐派などやまと絵を専門とする流派が登場するに至り、流派の意味でも使われるようになった。
歴史.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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平安時代平等院 中品上生 東扉

東アジア一帯に強力な政治的・文化的影響を及ぼしたは、907年に滅びた。アジア諸地域ではこの頃から中国の影響を離れ、文化の地方化が進んだといわれている[要出典]。日本においては894年遣唐使が停止され、10世紀には唐の影響が薄れ、いわゆる国風文化が興った。漢字をもとに仮名が考案され、和歌物語文学が興隆し、和様書道が成立したことなどがその具体的な現れであり、やまと絵の出現もこの頃と推量される。唐絵に対する「やまと絵」の語の初出は、藤原行成の日記「権記」の長保元年(999年)10月30日条とされ、そこには「倭絵四尺?風」に、当時能書として評判の高かった行成が文字を書き入れたことが記録されている。同時期の制作である『源氏物語』の「絵合」の巻には『竹取物語』『うつほ物語』『伊勢物語』などの物語絵が登場する。当時の宮廷・貴族社会において、日本の物語文学を題材にした絵画が享受されていたことが分かる。

平安時代の絵画作品で仏教以外の世俗画としては、邸宅内の調度や間仕切りのための、障子、屏風など大画面の作品が制作された。現存するものは社寺関係の遺品のみであるが、屏風について詠まれた多数の屏風歌により画題がわかる。それによれば、やまと絵の主要な主題は、四季絵・月次絵(つきなみえ)と名所絵であった。平安時代前期から中期にかけての絵師としては、巨勢派(こせは)の巨勢金岡(こせのかなおか)とその子である巨勢相覧(おうみ)、飛鳥部常則(あすかべのつねのり)などの名が伝わるが、これらの絵師には現存する確実な遺品はなく、実作品からその作風の変遷をたどることはできない。絵巻にしても、現存するものは「源氏物語絵巻」など12世紀の作品が最古であり、11世紀以前にさかのぼる物語絵の実物は現存しないため、その実態や様式の変遷については今なお不明な点が多い。

平安時代のやまと絵の遺品としてよく挙げられるのは絵巻である。四大絵巻と称される「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣人物戯画」はいずれも平安時代末期の12世紀に制作されたものである(ただし「鳥獣人物戯画」4巻のうち2巻は鎌倉時代制作)。
代表作


聖徳太子絵伝 - 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)、国宝。もと法隆寺東院の絵殿の壁画だったもので、現在は額装に仕立てられている。延久元年(1069年)、秦致貞(正確な読み方は不明だが通常「はたのむねざね」と読む)という作者の名前も判明している。

平等院鳳凰堂壁扉画 - 京都・平等院蔵、国宝。「九品来迎」(くほんらいごう)を主題とする浄土教系の仏教絵画であるが、背景には大和絵風の山水が描かれており、平安時代にさかのぼる数少ない大和絵資料としても貴重。天喜元年(1053年)完成。

源氏物語絵巻 - 徳川美術館五島美術館蔵、国宝

伴大納言絵巻 - 出光美術館蔵、国宝。

信貴山縁起 - 奈良・朝護孫子寺蔵、国宝。

鳥獣人物戯画 - 京都・高山寺蔵、国宝。

扇面古写経 - 大阪・四天王寺、東京国立博物館などに分蔵、国宝・重文

鎌倉時代ウィキソースに蒙古襲来絵詞の原文があります。

鎌倉時代は平安時代につづいて絵巻がさかんにつくられた時代である。戦乱武士の生活に題材をとったものがあらわれ、民間宗教の時代であることを反映して、寺社縁起や高僧伝記、仏教説話などを題材としたものが多く描かれた。後者は、社寺への報恩の意味で奉納されたものも少なくなかった。

この時代の絵巻物のうち、合戦絵としては「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵巻」「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵巻」が有名である。社寺縁起絵としては、「北野天神縁起絵巻」「春日権現験記絵巻」「石山寺縁起絵巻」「粉河寺縁起絵巻」などがあり、高僧伝絵としては、「法然上人絵伝」「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」「西行物語絵巻」「鑑真和上東征絵伝」「玄奘三蔵絵」が知られる。その他、日記文学を題材とした「紫式部日記絵巻」や東国武士の生活をつたえる「男衾三郎絵巻」など、鎌倉時代は質・量ともに絵巻全盛の時代となった。 竹崎季長「蒙古襲来絵詞」(1293年ころ)肖像画の傑作「神護寺三像」のうち「伝源頼朝像」[注釈 1]

やまと絵の手法で実際の人物を写実的に描写した肖像画には、藤原隆信信実父子や豪信らによる、一連の名品がある。軽快な線描で描き、即興的ときに戯画的な性格を持つ肖像画は、似絵(にせえ)と呼ばれた。「後鳥羽上皇像」「花園天皇像」「伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像」「親鸞上人像」「北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像」などが代表作として知られる。

鎌倉時代のやまと絵では、このように写実的性格の強い人物肖像画があらわれ、絵巻のなかにも伝記物が登場するなど、肖像彫刻の隆盛などと合わせ、鎌倉文化における個人および個性に対する強い関心がうかがえる。


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