大和川
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この項目では、奈良県大阪府を流れる河川について説明しています。その他の用法については「大和川 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

大和川
大和川(柏原市役所付近)
水系一級水系 大和川
種別一級河川
延長68 km
平均流量13.51 m³/s
(柏原観測所 1994年
流域面積1,070 km²
水源貝ヶ平山(奈良県
水源の標高822 m
河口・合流先大阪湾大阪府
流域 日本
奈良県大阪府


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大和川河口付近の航空写真

大和川(やまとがわ)は、奈良県および大阪府を流れ、大阪湾に注ぐ一級水系本流

川の名前は大和国大和盆地に由来する[1]

2004年から2006年まで全国で最も汚い一級河川だったが、全国でも最大級の処理水量の浄化施設の設置や自治体や市民のイベント参加など地道な努力で、2024年には「過去10年間で水質が大幅に改善されている河川」で日本1位に選ばれるなど、現在は本来の綺麗で透明な水の姿を取り戻しており鮎や鰻が確認できる[2]
地理・概要

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川曽我川葛城川高田川竜田川富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野に出ると柏原市南河内を流れてきた石川合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市堺市の間で大阪湾に流れ込む。

下流域は国土交通省(大和川河川事務所)の直轄管理となっているが、大和郡山市額田部南町・川西町大字吐田付近(奈良県浄化センターの南)より上流は奈良県(桜井土木事務所)管轄となる。管理境界地点の看板には下流は「大和川」、上流は「初瀬川」と記されており、この地点より上流が初瀬川と通称される。ただしあくまでも河川法上は源流まで大和川である。上流の橋の欄干や地図上では大和川と記されている。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

また流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった[3]。現在は以前と比べて水質が大幅に改善されており、2010年調査ではワースト3位まで改善して環境省の水質基準も満たしている。2007年11月には、アユの産卵も確認された。なお、水質が悪くなる前より、古くからシラスウナギ(ウナギの稚魚)が採れることでも知られている。

石川の合流部(柏原市藤井寺市

近鉄道明寺線鉄橋(柏原市安堂)

堤防上のサイクリングコース(柏原市)

生駒郡三郷町立野北にて上流方向を撮影

佐保川(左)との合流地点(大和郡山市川西町
中央は奈良県浄化センターの出水口

近鉄大阪線大和朝倉 - 長谷寺間に沿って流れる(桜井市

治水・流路変更の歴史

かつては生駒山系を抜けて現在の柏原市付近で石川と合流すると、その流れに乗るように北へ流れ、河内平野に大きな湖(草香江(くさかえ)、または河内湖)をつくって古い時代の淀川を合わせ、上町台地の北で海へと出る流路を為していた。河内湖は次第に土砂により埋まり、河内平野へと変わっていったが、基本的にはこの一帯は上町台地にさえぎられた低い湿地帯であり、江戸時代までは大和川の分流や多くの池を残していた。

江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池大東市周辺)・新開池東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。

これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。
江戸時代の付け替え計画以前
仁徳天皇による堀江掘削

日本書紀』巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、『宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く』とあり、上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされ、大和川の排水を促す工事としては最初のものであり、淀川左岸の築堤とともに日本で初めての大規模治水工事と考えられている。詳細は「難波の堀江」を参照
和気清麻呂の工事

律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本紀』巻第三十の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して、神護景雲4年7月(770年)、河内国志紀郡渋川郡茨田郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある[4]

その後、『続紀』巻第三十九によると、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが[5]上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。
中世

平安時代以降も大和川流域の洪水被害は頻発していた。堤防補修費用捻出のために弘仁3年(812年)には「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てることも行われた。さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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