大和堆
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Clip日本海の中央にある水深の浅い部分が大和海嶺で、その中央に見える谷部(北大和堆トラフ)を境にした下(南東)側が大和堆、上(北西)側が北大和堆。
なお、大和海嶺の北にある広大な深みは日本海盆
。大和堆と能登半島沖の大陸棚の間にある深みは大和海盆である。大和堆の真南に見えるのは新隠岐堆(この画像では見づらいが、新隠岐堆の真南には小さな隠岐堆があり、新隠岐堆の南西端の先には隠岐諸島がある)。
画像は海底地形図 (GEBCO 2021)。

大和堆(やまと たい、ローマ字表記: Yamato Tai [1])とは、日本海のほぼ中央部に存在する、この海域で最大の[注 1]である[2]。国際名称(称)は、国際水路機関 (IHO) が用いる Yamato Bank [3][4]日本語音写形: ヤマトバンク)を始めとして様々なものがある(※後述)。短径 約20キロメートル、長径 約130キロメートル[5]。最浅所は水深 236メートル[2][6][7]

冷水塊[字引 3]暖流域の境界部にあたる浅水域であることから[2]、大和堆周辺海域は日本海有数の好漁場である[2]

日本環境省による管理上は、沖合域の管理コードで「沖合海底域 326  大和堆周辺(英称: Offshore Seafloor 326  Yamato Bank)[3]」と呼ばれる水域面積 14,652平方キロメートル、最大水深 3,039メートル)の主要区域になっている[8][2]
名称

日本語名:大和堆。
ローマ字表記:Yamato Tai。語構成[ ja: 大和固有名詞;艦名)+

英語名

国際水路機関 (IHO) :Yamato Bank [4]

その他:Yamatotai Bank [4], Noto-tai [4], Yamato Ridge [4], Yamato-tai [4], Yamato Seamount [4], Vozvyshennost’ Yamato [4]

用法が不明瞭な名称:Yamato Rise [9](おそらくは大和海嶺を指すと思われるが、用法を特定しきれない)


ロシア語:Возвышенность Ямато [4]ラテン翻字: Vozvy?ennyj Yamato)

地理的特徴

大和堆は、アジア大陸東縁に沿って直線的な形でくっついていた古日本列島が、新生代新第三紀鮮新世[10][11]もしくは第四紀更新世[1])に入って大陸から分離されるグリーンタフ造山運動の際、日本海の拡大のために発生した海嶺の一断片である[11]。現在は活動していない。

隠岐諸島あたりから日本海の中央部へ向かって「水没した巨大な半島」のような形で伸びている海嶺を「大和海嶺[字引 4]」といい、日本海盆[字引 5](英称: Japan Basin)、南は大和海盆(英称: Yamato Basin)に接している。大和海嶺は、北西側にある「北大和堆(きたやまとたい、英称: Kita-Yamato Bank [12][13]」と南東側(日本列島側)にある「大和堆」とで構成されている[7]これら2つの堆を半ば分割しているのは、大和堆の北東から南西方向に走っている深さ2,000メートルに及ぶ地溝状の落ち込みである[11][7]。「北大和堆トラフ」と呼ばれているこの谷部は[1]、おそらくは大和海盆の生成と同時期か少し前に生成された正断層[注 2]と考えられる[1]。堆が2つでなく3つに分かれていると捉えて「拓洋堆(たくようたい)」と呼ぶ研究者もいる[1][14]。「拓洋堆」と呼ばれるその場所は、大和堆の北東部にあってやや独立している高まりである[1]。これらのうち、北大和堆と拓洋堆からはおよそ2億年前に生成された花崗岩花崗閃緑岩が確認されており[1](北大和堆からは約1億9700万年前の閃雲花崗岩が、拓洋堆西部の浅所からは約2億2000万年前の角閃石花崗岩が採取されており[10][注 3]、これら中生代前期の岩石が見出されることは、本州中央部の飛騨変成帯[字引 6]の花崗岩との類似から、古生代ないしそれ以前に生成された可能性があることも指摘されている[10][1]。これに対して大和堆は、中生代の濃飛流紋岩が確認されていることから中生代造山活動の痕跡は確かにあるものの、新第三紀または第四紀にはこれらを貫いて安山岩および玄武岩の噴出が大和海嶺・隠岐堆周辺地域にあったと考えられ、その一部はアルカリ岩であることから、鮮新世から現世にかけての西南日本のアルカリ岩系の激しい造山活動と同時期に生成された可能性が高い[15][10]。つまり、大和海盆の拡大以前(大和堆が本州と隣接してマグマ溜りの直上にあった時期)の造山活動によって本州の西南日本の部分と同時に生成された可能性が高い[1]

日本列島がアジア大陸部から分離し、日本海が拡大したときの大陸地塊の残存物と考えられる[16]大和海嶺(大和堆と北大和堆)は、日本海の中央部に位置する海嶺(比高約2000メートル、長さ約400キロメートルで、東北東に伸びる[14])であり[2]、冷水塊[字引 3]暖流域との境界部にあたることと相まって、日本海でも有数の漁場となっている[2]。表層の生産性が高く、そこからもたらされる有機物の沈降によって海底での生産性と生物多様性も高くなっている[2]

先述のとおり、大和海嶺は隠岐諸島から北東にかけて続く浅堆の北端付近にある。陸と海の地形をありのままに捉えれば、山陰地方の山地と隠岐諸島(および、隠岐諸島沖の大陸棚)と大和海嶺は繋がっている[11]。つまり、山陰地方中央部の山地を基部として隠岐諸島が日本海に突き出し、それより先に隠岐諸島より遥かに大きい九州ほどの広大な面積をもつ半島部が形成されているが、その半島部は水没しているということである[11]

また、地磁気の分布上でも、大和堆磁気区(大和海嶺の磁気区。YMT)と隠岐諸島磁気区 (OKS) の2区は地続きになった一つの塊である[17]

大和海嶺の最浅所は、大和堆の北緯39°東経134°08′ 地点[6]であり、水深は 236メートル[2]。北大和堆のほうは水深 397メートル[7]とやや深い。

発見の歴史については「発見史」節にて詳説する。
生物相.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。 (2020年11月)

歴史.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}測量艦「大和」「大和堆」および「北大和堆」という地名の由来となった測量艦「大和」/ 19世紀末期の神戸港にて撮影。
発見史

大日本帝国水産講習所(現在の東京海洋大学の主要な前身)海洋調査部に所属する調査船天?丸[18]は、1924年(大正13年)に日本海の地形調査を行い、日本海のほぼ中央部で未知の浅水部を発見した[19]。最浅所の水深は 307メートルと計測された[20](※当時の数値)。この発見があるまでは、日本海は一様に深い海と考えられていた。

1926年(大正15年/昭和元年)、改めて大日本帝国海軍水路部測量艦大和」による精密測量が行われ、最浅所の水深として 236メートルという数値を得た[21]。これにより、新発見の浅水部(堆)は「大和」の艦名から採って「大和堆」と命名された[19]

さらに、1930年(昭和5年)になると、海洋気象台の海洋観測船「春風丸」が大和堆の北にも最浅所が水深 465メートル(※当時の計測数値)の浅水部を新たに発見し、「春風堆」と命名した[14]。しかし、翌1931年(昭和6年)に測量艦「大和」が精密測量を行ったところ、416メートル(※これも当時の計測数値)の最浅所を発見したため、こちらも測量艦「大和」の名にちなんだ「北大和堆」へと改名された[14]


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