大和型戦艦
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大和型戦艦
宿毛湾沖標柱間にて公試中の戦艦大和
1941年10月30日撮影
基本情報
艦種戦艦
命名基準旧国名
運用者 大日本帝国海軍
建造期間1937年 - 1944年
就役期間1941年 - 1945年
同型艦大和武蔵信濃(空母に設計変更)、111号艦(建造中止)
計画数4隻
建造数2隻
前級十三号型巡洋戦艦
次級改大和型戦艦及び超大和型戦艦(共に建造中止)
要目 (計画値)
基準排水量64,000 t
公試排水量68,200 t
満載排水量72,800 t
全長263.40 m
最大幅38.9 m
吃水10.4 m (公試状態・平均)
主缶ロ号艦本式重油専焼水管缶×12基
主機艦本式タービン×4基
推進器スクリュープロペラ×4軸
出力150,000馬力
速力27ノット (50 km/h)
航続距離16ノット (29km/h) で 7,200 (13,370km)
乗員約3,300名
兵装

45口径46cm3連装砲×3基

60口径15.5cm3連装砲×4基

40口径12.7cm連装高角砲×6基

25mm3連装機銃×8基

13mm連装機銃×2基

カタパルト×2基

装甲

(数値はいずれも最大)

舷側 410 mm

甲鈑 230 mm

主砲防盾 650 mm

搭載機

(数値はいずれも竣工時)

水上機最大7機

零式水上偵察機

零式観測機


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大和型戦艦(やまとがたせんかん)は、大日本帝国海軍が建造した戦艦日本で建造された最後の戦艦艦型でもある。戦艦としての排水量、搭載主砲口径ともに世界最大。

1番艦「大和」と2番艦「武蔵」が戦艦として竣工。3番艦「信濃」は対米戦の戦局に合わせて設計変更され航空母艦として竣工した。4番艦111号艦は1942年に建造中止となり解体された。
概要

大日本帝国(以下、日本)はワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約の延長に応じず、列強各国が海軍力増強を自粛していた海軍休日は終わった[1]。大和型戦艦は艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次海軍軍備補充計画の際に建艦技術の粋を集めて建造された戦艦である。当時欧米諸国はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらを凌駕する46cm砲を装備した結果、基準排水量は64,000tとなり、世界最大の戦艦として建造された。「量の不足を卓越せる質で補うより道なし」という発想で開発された戦艦である[2]。1929年に平賀譲が提案した金剛代艦の影響が強いとも言われる[3]。1934年に起草された新戦艦要求案では、米海軍の渡洋進攻艦隊を日本近海に迎え「制空権下の艦隊決戦」によってこれを撃滅するという基本方針から「18in砲搭載艦2隻の新造で十分」とされた[4][5]

日本海軍では戦艦に対し日本の旧国名に因んだ名が付けられており、「大和」は奈良県の旧国名(大和)から命名されたが、単に旧国名としてでは無く、「日本」の別称として意味もあったとする説がある[6]。同様の主旨の命名として、建造当初世界最大の戦艦だった扶桑(扶桑は日本の美名)と山城(長く都の置かれた京都府の旧国名)がある。1番艦「大和」及び2番艦「武蔵」が大戦中に就役している。

現在でこそ戦艦大和は日本国民に最も知られた軍艦と言っても過言ではないが、太平洋戦争中はその存在自体が最高軍事機密とされたこともあり(海軍関係者には、名前だけはいつの間にか広まっていた)、当時の国民には長門型戦艦長門陸奥が海軍の象徴として親しまれていた。その後、史上最大の威容を誇りつつもほとんど活躍の機会なく、悲劇的な最期を迎えた故か、数々の媒体(映画漫画アニメや、プラモデルなど)で幅広い年代によく知られるようになっていった。戦後の日本国内での注目度への定量表現を交えた言及は映画[7]、出版物(180冊)、プラモデル、インターネット上での関連ホームページ約13000件、大和ミュージアムなどの数字、関連施設が挙げられている[8]
建造

1930年代大日本帝国(以下日本)と欧米列強との対立は深まっていった。1934年(昭和9年)2月8日、連合艦隊司令長官末次信正中将は扶桑型戦艦1番艦「扶桑」を視察した際に『(欧米列強に対し)飛行機の遅れ』『五万トンの戦艦2隻でもつくった方が米国ではパナマ運河にも差しつかへて、競争にならなくてよいかもしれぬ』と発言する[9]。同時期、1937年(昭和12年)にロンドン海軍軍縮条約の期限が切れ、それに向けてイギリスアメリカフランスイタリアなどの列強が新たな大型戦艦を建造することが予想された[10]。ヨーロッパでは既に新型戦艦が登場しており、ドイツはポケット戦艦(ドイッチュラント級装甲艦)を、フランスはダンケルク級戦艦を投入している[11]。アメリカでは、速力26ノット程度の高速戦艦建造の気運があり、軍令部も注目している[12]。当時の日本海軍の戦艦は対米英比六割に甘んじていた。そこで日本は軍縮条約から脱退して他国とは隔絶した能力を持つ大和武蔵の建造を開始することとした。 「右戦艦完成の暁は、主力艦兵力比較の尺度は根本より変革せられ、対米現有勢力比六割は一躍我が方の絶対優勢に帰す」[13] 。1934年(昭和9年)9月25日、軍令部は新型高速戦艦2隻について、排水量6万5000トン、速力34ノットを想定[14]。この後、速力要求は30ノットに引き下げられた[15]。続いて10月、列強新戦艦に対抗することを目的に軍令部より艦政本部に向けて「18インチ砲(46cm砲)8門以上、15.5cm三連装4基12門または20cm連装砲4基8門以上、速力30ノット、航続距離18ノット8000マイル」という大型戦艦建造要求が出される[16][17]1935年(昭和10年)11月2日には中村良三海軍大将・艦政本部長が新型戦艦の設計方針を具体的に指示した[18]

これを受けて1936年(昭和11年)12月26日開会の第七〇回帝国議会に新型戦艦「A140-F5(「A」は「戦艦」、「140」は「140番目に計画された」の意味)」2隻分(1隻9800万円)の予算が提出される[19]。ただし予算規模から艦の大きさを諸外国から推定されないよう架空の駆逐艦3隻(1350万円)、架空乙型潜水艦1/2隻(609万円)が計上されており、これらを含めた予算1億1759万円が、実際のA140F5艦予算だった[20]。だが大型水上艦用ディーゼル機関潜水母艦大鯨」に先行搭載したところ不具合が多発し、曲折の末に通常の蒸気タービン機関搭載が決定する(計画変更時期は諸説あり)[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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