大和の古道
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出典検索?: "大和の古道" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年3月)

大和の古道(やまとのこどう)とは、日本の古代道路のうち、大和国内に設置されたものをいい、

奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道。山辺の道(やまのべのみち)

奈良盆地の中央より東を南北に平行する三本の縦貫道。上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)。また、これを「大和三道」ともいう。

奈良盆地の中央と南部を東西に平行する二本の横断道。横大路(よこおおじ)、北の横大路

奈良盆地の中央部を斜め(北北西-南南東方向)に通る道。筋違道(すじかいみち)

などがある。

大和の古代道路概略地図










  違
   道
暗越龍田道北の横大路
 津
  道
丹比道横大路   山
 田
平城京




卍▲



各道路の位置関係を示す。
(注)表示環境によって文字(内部リンク)の位置がずれることがあります。

上ツ道・中ツ道・下ツ道概要

南北にまっすぐ通る三道は、ほぼ4里(一里 = 531メートル、四里で約2120m)の等間隔をなしており、東から順に上ツ道、中ツ道、下ツ道と平行に並んでいる。現在でも形跡が残っている箇所も多く存在する。

三道の敷設年代については、『日本書紀』孝徳天皇白雉4年 (653年) 六月条に「処処の大道を脩治(つく)る」とあることなどを勘案して7世紀半ば頃に敷設されたと推定されている。

また、『日本書紀』によれば、壬申の乱の奈良盆地での戦闘記事には、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前には完成していたことが知られる。

三道の目的については、よく分かっていない。7世紀に飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われた。とりわけ斉明朝には、巨大な建築物や山をも取り込んで石造の巨大施設が作られており、その材料の運搬のための道路であるとも考えられる。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないか、とも推測されている。
上ツ道詳細は「上街道 (上ツ道)」を参照

上ツ道は桜井市から奈良盆地東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市中部(猿沢池)に至る古道。古墳時代には物部氏の西山古墳と南では箸墓古墳を結んでいたのではないか。近世では上街道と呼ばれた。現在では伊勢街道、長谷街道などとよばれている。

南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、更にその先は山田道を経て飛鳥へと通じている。また、櫟本(天理市)で「北の横大路」と交わっている。
中ツ道

中ツ道は、上ツ道と下ツ道の間約2.1kmの所を平行して通り、橿原市天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る直線道である。道筋は現在の奈良県道51号天理環状線と概ね合致・平行している。南は藤原京の東京極をなし、北ではのちの平城京の東京極となった。更に南は香具山を迂回し橘寺へ至るため、近世は橘街道と呼ばれた。中ツ道また飛鳥の中心部を通っている。南の延長線上に「ミハ山」があり、『万葉集』 (13-3230) にも詠まれている。その「ミワ山」が「神名火山」で、「神岳」である吉野に通ずる道しるべであるかも知れない。更に南下すれば芋峠を経て吉野に至る。近江朝廷を脱出した大海人皇子は、この中ッ道を通って吉野の嶋宮に入ったと推測されている。

平安時代には吉野詣で賑わい、御堂関白記には藤原道長もこの道を経て吉野へ向かったと記されている。他の道に比べれば形跡はあまりはっきりと残っておらず、途切れがちな印象である。

2013年5月11日に、中ツ道の遺構とみられる跡が発見されたと、調査した奈良県立橿原考古学研究所が発表した[1]


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