大同電力
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大同電力株式会社
Great Consolidated Electric Power Company, Limited.

大同電力が建設した大井ダムと大井発電所(左)
種類株式会社
略称大同
本社所在地 日本
東京市麹町区丸ノ内1丁目6番地1
東京海上ビルディング
設立1919年(大正8年)11月8日[1]
(大阪送電株式会社として設立)
1921年(大正10年)2月25日[2]
(大同電力株式会社に社名変更)
解散1939年(昭和14年)4月2日[3]
業種電気
事業内容電気供給事業
歴代社長福澤桃介(1919 - 1928年)
増田次郎(1928 - 1939年)
公称資本金1億8741万円
払込資本金1億6339万5200円
株式数旧株:251万9260株(額面50円払込済)
合併株:2万8200株(同上)
新株:120万740株(30円払込)
総資産3億2603万6990円(未払込資本金除く)
収入2592万1264円
支出2042万0089円
純利益550万1175円
配当率年率6.0%
株主数3万7391人
主要株主大同土地興業 (7.3%)、東電証券 (3.9%)、京阪電気鉄道 (3.4%)、千代田生命保険 (1.8%)、寺田合名会社 (1.7%)、東邦証券保有 (1.0%)
決算期5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1938年11月期決算時点[4][5]
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大同電力株式会社(だいどうでんりょく、英文社名:Great Consolidated Electric Power Company, Limited.[注釈 1])は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社、通称「五大電力」の一つ。

大阪送電株式会社(おおさかそうでん)の社名で1919年に設立され、1921年に木曽電気興業日本水力の2社を合併して大同電力となった。木曽川などの河川において電源開発を手がけ、同時に関西中部関東にまたがる広域送電網を構築。これらの地域で営業する電気事業者への電力供給を事業の中心とする、卸売り電力会社として発展した。

1939年に解散。保有していた発電所はその後の再編を経て関西電力中部電力北陸電力の3社に継承された。また傍系会社の系譜を引く特殊鋼メーカー大同特殊鋼に「大同」の社名を残している。
概要初代社長福澤桃介2代目社長増田次郎

大同電力株式会社は、1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した、他の電気事業者に対する電力供給、すなわち電力の卸売り[注釈 2]を主体とする電力会社である。大正末期から昭和戦前期にかけて大きな勢力を持っていた電力会社5社、いわゆる「五大電力」の一つに数えられる。

1919年11月、「大阪送電株式会社」の社名で設立されたのが大同電力の始まりである[7]。設立の前年にあたる1918年(大正7年)9月に中部地方を流れる木曽川の水力開発などを目的として設立されていた木曽電気興業(旧社名木曽電気製鉄)が主たる親会社で、同社が開発する水力発電所の発生電力を関西地方へと送電することを起業の目的とした[7]。これら大阪送電・木曽電気興業の2社に加えて、北陸地方などにおける水力開発を計画し、関西方面への送電を構想するという点で起業目的が共通する日本水力の計3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社は発足した[7]。初代社長は大阪送電・木曽電気興業両社の社長を兼ねていた福澤桃介である[8]

大同電力が発足した第一次世界大戦後から大正末期にかけて、日本では5つの電力会社が業界内で巨大化していた[9]。この5社がいわゆる「五大電力」で、他の4社は関東地盤の東京電灯中京北部九州地盤の東邦電力、関西地盤の宇治川電気、同じ卸売り会社の日本電力を指す[9]。電気事業の大型化の中で、大同電力は木曽川において積極的な水力開発を手がけることにより規模を拡大していった[10]。木曽川に建設された発電所のうち、1924年(大正13年)に完成したダム式の大井発電所は当時国内で最大の発電出力を擁した[11]

電力の供給先はおおむね電気事業者であり、小売りの比率が1割程度あったため完全な卸売り専業とは言えないが、事業の主体は電力の卸売りであった[12]。大口需要家には五大電力のうち宇治川電気・東京電灯も含まれるが、両社とはしばしば対立し、初期には大同電力側が相手側の地盤に割り込む構えを見せて自社に有利な電力供給契約を獲得したが、後期には一転攻勢を仕掛けられて電力料金の引き下げを要求され紛争が生じた[13]。これらを含む五大電力間の紛争は当時「電力戦」と呼ばれた[14]

1930年代に入ると、金輸出再禁止に伴う急速な円安により、1920年代に発行していた外債の支払利子負担が跳ね上がるという電力外債問題が発生する[15]。この処理のため2年間にわたり無配に転落するが、1930年代半ばより業績は持ち直した[16]。しかしその一方で、そのころより政府主導の業界再編を目指す「電力国家管理」政策の検討が本格化する[17][18]。同政策は1938年(昭和13年)の電力管理法公布、そして翌1939年(昭和14年)4月の国策会社日本発送電設立という形で実行に移された[19]。同社設立の過程で大同電力は電力設備の出資を命ぜられ、他の設備も強制買収の対象とされた上に、政府当局から残余の資産・負債についても日本発送電へ移管することを慫慂された[20]。このことから大同電力は全社を挙げて日本発送電へと合流する道を選び、資産・負債を同社へと継承させて1939年4月に解散した[20]。最後の社長(2代目社長)であった増田次郎は、解散により日本発送電の初代総裁に転じている[20]

大同電力から日本発送電に継承された発電所は、第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)に実施された「電気事業再編成」に際して、新発足した電力会社9社のうち関西電力中部電力北陸電力の3社にそれぞれ引き継がれた[21][22][23]。中でも大半を占めていた木曽川の発電所はすべて関西電力の帰属となっている[21]

傘下に抱える関係会社には、北陸から関西への送電線を建設した昭和電力などがあった[24]


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