大受久晃
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大受 久晃

勝負審判を務める朝日山親方(左上・シリコーン除去手術前・2005年5月場所)
基礎情報
四股名大受 久晃
本名堺谷 利秋
愛称脇毛の大関[2]
生年月日 (1950-03-19) 1950年3月19日(74歳)
出身北海道瀬棚郡瀬棚町
(現:久遠郡せたな町
身長177cm
体重148kg
BMI47.24
所属部屋高嶋部屋
得意技突き、押し、おっつけ
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴462勝388敗31休(74場所)
幕内戦歴308勝296敗26休(42場所)
優勝十両優勝1回
殊勲賞4回
敢闘賞1回
技能賞6回
データ
初土俵1965年3月場所[1]
入幕1970年5月場所[1]
引退1977年3月場所[1]
引退後朝日山部屋師匠
備考
史上初の三賞トリプル受賞して大関に昇進した力士
2015年3月22日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

大受 久晃(だいじゅ ひさてる、1950年3月19日 - )は、北海道瀬棚郡瀬棚町(現:久遠郡せたな町)出身で高嶋部屋に所属した元大相撲力士。本名は堺谷 利秋(さかいや としあき)。現役時代の体格は身長177cm、 体重148kg。最高位は東大関年寄朝日山利秋として、朝日山部屋の経営にも携わった[1]
来歴
大相撲入門

小学校6年生の時の修学旅行で泊まった函館の駅前の江差屋旅館が高島部屋の勧誘を担当していたため、太った体を見込まれて入門を誘われた。中学に入ると間もなく高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家まで訪ねたため、他の部屋からも1件勧誘があったがわざわざ家まで来てくれた高島親方のために高島部屋への入門を決意。北海道の7男3女の10きょうだいの六男であったため、入門は自然に決まったという[3]。部屋に入門した13歳の当時身長が158cmしかなく、背がなかなか伸びずに当時設けられていた「身長170cm以上」という基準を満たせず2年近く苦労した[4]。見習い当時正式な力士ではなかったため稽古に参加させてもらえず、部屋内の掃除が終わった午前4時になると部屋の近くの公園で身長を伸ばそうと鉄棒にぶら下がった[3]。最終的にはシリコーンを頭に入れ新弟子検査を受けて合格し、1965年3月場所に初土俵を踏んだ。新弟子検査を受けた1964年年9月場所前を皮切りに、計3回シリコーンを少しずつ注入した[3]。師匠からマンツーマンの厳しい指導を受け、体格に似合った押し相撲を体得[1]。その後は順調に番付を上げていき、わずか4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。

「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」(君子は小事にとらわれず、大事を任せられる)という一節からとられたもの。

なお、あれほど伸びなかった身長は新弟子検査合格から半年も経過しないうちに4、5p伸び、この時ばかりは当の大受も複雑な思いであった[3]
入幕後

1970年3月場所に西十両筆頭で14勝1敗の好成績で十両優勝。翌5月場所に新入幕(東前頭6枚目)を果たすと徹底した押し相撲で9勝6敗と勝ち越し、早くも技能賞を受賞し幕内に定着した。1971年3月場所5日目、初日から4連敗だった新関脇の大受は初めて横綱大鵬を一気の押しで破り、この場所を8勝7敗と勝ち越し見事殊勲賞を受賞し、上位キラーとして三賞の常連になった。1971年3月場所、5月場所は貴ノ花も共に三賞を受賞したが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上1例目と2例目である[5]

この年7月場所まで関脇を保守したがその場所で4勝11敗と大敗し一時平幕に甘んじていたが、1973年3月場所に関脇に復帰すると3大関に勝ち10勝5敗、2横綱2大関に勝ち11勝4敗と2場所連続で二桁勝利を挙げ、7月場所には1横綱2大関に勝ち13勝2敗の成績を挙げて史上初めて三賞を独占[1]。7月場所後、大関に昇進した。
大関時代・短命5場所

新大関の1973年9月場所は腰痛の影響もあり8日目から途中休場。2場所目の翌11月場所でいきなり大関角番となったが9勝6敗と勝ち越し角番脱出。しかしそれ以降も首・右膝の故障にも悩まされ、1974年3月場所で9日目から再び途中休場。2度目の角番で迎えた同年5月場所で6勝9敗と負け越し、大関の地位で2場所連続負け越したため関脇への陥落が決まってしまう。

大関在位はたった5場所に終わり[1]、最高位が大関の力士で年6場所制になってからは、当時歴代1位の短命記録だった(現在の短命大関1位は、御嶽海の4場所)。さらに24歳3ヶ月での陥落は、雅山と並んで最年少記録である[注釈 1]
関脇陥落後・十両の地位で引退

関脇に陥落した翌7月場所は、10勝以上の成績を挙げれば1場所で大関特例復帰を果たせたが、12日目に前頭5枚目長谷川戦で6敗目を喫し、ここで大関再昇進が絶たれる。その後千秋楽まで3連勝したが9勝6敗と惜しくも1勝足りなかった。なお関脇陥落場所で勝ち越しながら大関復活が絶たれた力士は、1969年7月場所に「大関で2場所連続負け越しにより関脇降下、但し転落場所で10勝以上すれば大関特例復帰」の規定に改められて以降、大受が初めてであった[注釈 2]

1974年7月場所から同年11月場所まで、関脇の地位で3場所連続で勝ち越した。戦後、大関陥落後に3場所連続で三役を維持したのは史上2人目[6]。11月場所14日目の北の湖戦はNHK大相撲中継の視聴率が37.1%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で6位タイである(ビデオリサーチ調べ)[7]。だが、翌1975年1月場所は4勝11敗と大敗、4場所続いた関脇から平幕の地位に下がり、以降三役への返り咲きはならなかった。その後は満身創痍の土俵が続いていたが左膝も故障し、同年9月場所で新入幕を果たした前頭12枚目千代の富士に幕内初白星を献上するなどして幕内下位でも成績を残すことが出来なくなり、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落した[注釈 3]。当時大受は年寄名跡を取得しておらず、かつ「年寄名跡を持っていなくても、引退後3年間は四股名のまま年寄として残れる」という現在の大関の特権もなかったため、やむなく出場することとなったが、初日から3連敗を喫し、4日目から途中休場に追い込まれ、場所後に現役を引退し偶々空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。

取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。押し相撲のみで大関になった力士の出現は大受以降となると後に貴景勝が現れるまで45年余りを要した[8]

なお、1973年11月場所の12日目、横綱琴櫻との一番で、お互いが頭を鉢合わせするような形でぶちかましたところ、琴櫻は脳震盪を起こして倒れてしまった(決まり手は突き落とし)。取組後、琴櫻は「あんな石頭は初めてだ」とコメントしている。頭に入れたシリコーンが凶器となった可能性があるが、当時はそのことがあまり知られていなかったらしく、特に問題とはされなかった。
引退後・年寄時代

引退後は現役末期から不仲だった師匠の下を離れ、楯山の株を譲られた清國伊勢ヶ濱部屋で後進の指導に当たっていたが、1997年5月場所中に同じ一門の朝日山親方(元小結若二瀬)が急逝。師匠代理の後に年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を急遽継承した(楯山の株は2008年玉春日に売却するまで引き続き所有)[1]。暫く関取が不在で低迷していた時期もあったが、先代からの弟子である大真鶴が幕内まで昇進した。子飼いの関取としては鬼嵐を育てた。


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