大友義鎮
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 凡例大友 義鎮 / 大友 宗麟
大友宗麟像(瑞峯院所蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕享禄3年1月3日1530年1月31日
もしくは同年5月4日5月30日
死没天正15年5月23日1587年6月28日[1]
改名塩法師丸(幼名)、義鎮、瑞峯休庵宗麟
別名五郎、新太郎(仮名)。宗滴、円斎、府蘭、玄非斎、三玄斎、三非斎(号)、
普蘭師司怡、不龍獅子虎[2]
渾名:豊後の王、九州の王
戒名瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士
霊名ドン・フランシスコ(普蘭師司怙)
墓所大分県津久見市津久見
京都市北区瑞峯院
位牌は津久見市上宮本町の響流山長泉寺
官位正四位下左近衛少将左衛門督
従三位[3]
幕府室町幕府豊後豊前肥前肥後筑前筑後守護九州探題
主君足利義晴義輝義栄義昭豊臣秀吉
氏族大友氏藤原氏秀郷流)
父母父:大友義鑑
母:坊城氏
兄弟義鎮(宗麟)、大内義長塩市丸、隼人[4]一条房基室、河野通宣室、吉弘鑑理室(貞善院義誉静音)、小田部鎮元室、城井鎮房室、親貞
妻正室:一色義清娘・宝岸寺殿
継室:奈多夫人奈多鑑基娘)
側室:一萬田夫人(一萬田親実娘)など7人。
義統親家親盛、女子(長女、母は一色氏)、ジェスタ (一条兼定継室のち清田鎮忠継室)、久我三休室、奈多鎮元室、一萬田鎮実室、母里友信室、臼杵統尚室、桂姫小早川秀包室)
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大友義鎮(宗麟)
神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像
教会カトリック教会(キリシタン)
洗礼名ドン・フランシスコ
受洗日1578年
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大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。

父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。弟に大内義長塩市丸親貞など[注釈 1]。子に義統(吉統)、親家親盛など。

中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球カンボジアポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交[注釈 2][注釈 3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。大友氏豊後国筑後国守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。
生涯
家督相続

享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれた。傅役は重臣の入田親誠が務めた。幼名は塩法師丸。

天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗った[5]

義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。

天文19年(1550年)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こした。

2月10日、塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した(二階崩れの変)。義鑑の遺言により、義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。
勢力拡大大友宗麟公像(大分県津久見市)

天文20年(1551年)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになり、さらに周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらした。弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の?洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。

また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中にした。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利し、天文23年(1554年)に肥前国の守護にも任じられた。しかし、父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエル宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付き、天文22年(1553年)に一萬田鑑相[注釈 4]と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

弘治3年(1557年)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失った。


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