この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年2月)
おおはら まごさぶろう
大原 孫三郎
生誕1880年7月28日
岡山県窪屋郡倉敷村
洗礼1905年7月31日
死没 (1943-01-28) 1943年1月28日(62歳没)
岡山県倉敷市新川町
墓地鶴形山墓地
住居岡山県倉敷市新川町(本邸)
兵庫県武庫郡住吉村(別邸)
京都府京都市左京区(別邸)
国籍 日本
別名敬堂(号)
出身校東京専門学校中退
職業実業家、社会事業家
影響を受けたもの石井十次
配偶者大原寿恵子
子供大原総一郎
親大原孝四郎(父)
大原恵以(母)
テンプレートを表示
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家、社会事業家。
倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。
社会、文化事業にも熱心に取り組み、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。早稲田大学推薦校友[1]。同志社社友[2]。 岡山県窪屋郡倉敷村(現・倉敷市)の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎の三男として生まれる。大原家は文久年間に村の庄屋をつとめ明治の中頃には所有田畑約800町歩の大地主となった豪家である。兄が夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。 倉敷小学校、窪屋郡組合立高等小学校、閑谷黌を経て1897年(明治30年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。若年は富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り、専門学校時代もほとんど講義には顔を出さなかった。放蕩の果てに1万5千円(現在の金額で1億円)もの借金を抱え、1901年(明治34年)父親より東京専門学校を中退のうえ倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。 謹慎中に石井十次を知り、その活動に感銘を受けた。孫三郎は社会福祉事業にも興味を示すようになり、後に工員の環境改善や農業改善に取り組んでいる。明治34年、十次の紹介で石井スエ(のち、寿恵子)と結婚。倉敷紡績に入社。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。1902年(明治35年)には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補習学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこの奨学生となっている。 さらに同年12月から石井十次の勧めにより倉敷日曜講演を開始する。この講演は1925年(大正14年)まで76回開催され、大隈重信や三宅雪嶺、徳富蘇峰、山路愛山、安部磯雄、新渡戸稲造などの著名人が講師として招かれ、倉敷町民の間で好評を博した[3][4]。
来歴
生い立ち