大分城
[Wikipedia|▼Menu]

府内城
大分県
手前から西丸二重櫓、宗門櫓及び東丸の着到櫓
別名大分城、荷揚城、白雉城[1]
城郭構造梯郭式平城(海城[注釈 1]
天守構造4重(1607年築 形式は不明)
非現存
築城主福原直高
築城年1597年
主な改修者竹中重利
主な城主竹中氏、日根野氏、大給松平家
廃城年1872年
遺構石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡(天守台)
指定文化財大分県指定史跡(石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡1(天守台))
大分市指定史跡(県指定部分を除く城地)[2]
再建造物二重櫓3棟、大手門、土塀、廊下橋
位置北緯33度14分26.31秒
東経131度36分41.16秒座標: 北緯33度14分26.31秒 東経131度36分41.16秒
地図 府内城
人質櫓(左)と天主台(右) 大手門 廊下橋

府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。
目次

1 概要

2 歴史・沿革

2.1 築城以前

2.2 安土桃山時代・江戸時代

2.3 近現代


3 構造

3.1 建造物

3.1.1 天守

3.1.2 人質櫓

3.1.3 宗門櫓

3.1.4 大手門

3.1.5 廊下橋



4 関連項目

5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典

5.3 参考文献


6 外部リンク

概要

府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。なお、府内城は海城でもあるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多く、その一例である[3]

江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により櫓が数棟焼失した。

現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、石垣、土塀、堀とともに大分県の史跡に指定されている。県の史跡に指定された以外の部分は、大分市の史跡に指定されている[1]。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されている。三の丸跡には、大分県庁大分市役所などがある。

西丸跡には1966年大分文化会館が建てられたが、2013年(平成25年)10月に閉館し、その後、解体された。文化会館跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される[4]。なお、大分市は1993年(平成15年)に、文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない[5]2017年(平成29年)2月には大分城址公園整備・活用基本計画が策定され、天守等については将来的に調査・研究の成果に応じて整備をめざすとされた[6]

2017年(平成29年)12月27日から2018年(平成30年)2月14日には、金属製パイプで天守の骨格を再現し、LEDによるライトアップが行われた[7][8]。その後、2018年(平成30年)3月27日から2019年(平成31年)2月14日まで再びライトアップが行われている[9]
歴史・沿革
築城以前

古代にはやや上流の上野丘陵豊後国国衙[注釈 2]が置かれていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef