大分交通国東線
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国東線
概要
現況廃止
起終点起点:杵築駅
終点:国東駅
駅数20駅
運営
開業1922年7月7日 (1922-07-07)
廃止1966年4月1日 (1966-4-1)
所有者国東鉄道→大分交通
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長30.3 km (18.8 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
最小曲線半径160 m (520 ft)
電化全線非電化
最急勾配18.18
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例


国鉄日豊本線


0.0杵築駅




国鉄:日豊本線


1.2八坂駅


3.3祇園駅


若宮駅(臨)


5.1杵築町駅


6.2大内駅駅


7.9灘手駅


9.4守江駅


東守江駅


11.8狩宿駅


13.9奈多八幡駅


14.9北奈多駅


志口駅


18.1安岐駅


19.1古城駅


大海田駅


23.3武蔵駅


24.9池の内駅


26.4綱井駅


黒津崎駅(臨)


29.1小原駅


30.3国東駅


36.0富来駅


計画線


豊後高田駅


宇佐参宮線

国東線(くにさきせん)は、かつて大分県杵築市杵築駅から、国東半島東部にある同県東国東郡国東町(現・国東市)の国東駅までを結んでいた大分交通鉄道路線である。
路線概要

駅および停留所同士の間隔が狭く、沿線集落の住民の生活に密着していた。国東半島はそのほぼ中心にある両子山から沿岸部に向かって幾筋もの谷が続き、その谷に沿って集落が点在している。したがって内陸の集落から沿岸部に出るのは比較的容易であるが、隣の谷筋に行くのは非常に不便であった。この点も考慮し、特に安岐駅以北は主要な谷筋ごとに必ず駅または停留所が配置されていた。潮干狩りの時期には臨時に「貝掘り列車」、花見の際には八幡奈多宮の「花見列車」を出した。また、みかん七島イの輸送に使われたりと人々に長い間親しまれていた[1]

千光寺の坂(八坂停留所 - 祇園駅間)、祇園の坂(祇園駅 - 若宮臨時停留所間)、塩屋の坂(志口停留所 - 安岐駅間)といった急坂は、いずれも距離が長かったので、乗客の多いときなど一度では上りきれずに後退してしまうことがあった。そのようなときは思い切って戻り、勢いをつけて全速力で上っていったが、それでも上りきれないときには乗客に坂の間だけ降りて歩いてもらったものである。ひどいときには乗客に後ろから押してもらうようなこともあった。特に戦中戦後の燃料事情の悪いときには、日常茶飯事のことであった。

杵築高校生の通学をはじめ、地域住民になくてはならないものであった。国東線が現役であった頃は、国東半島は大分県内の中でもきわめて道路事情の悪い地域であり、陸の孤島などと呼ばれていた。半島の沿岸部をまわる国道213号は、現在は国東線の線路跡を利用するなどして線形・幅員ともにかなり改良されているが、当時は曲がりくねった未舗装の狭路であったので、自動車輸送はあまり役に立たなかったのである。バス交通もあったが、現在よりもずっと時間がかかっていた。

みかん栽培や七島イの栽培が隆盛をきわめる中、国東線の経営もすこぶる順調であった。富来までの工事が予定され、用地確保もなされていた。最終的には宇佐参宮線と結び国東半島一周鉄道を形成する構想もあったが、これらは諸般の事情で実現しなかった。国東 - 富来間の確保済みの用地は、現在は荒れるに任されており確認するのは困難となっている。
路線データ

1961年(昭和36年)10月当時

路線距離:30.3km

駅数:20

軌間:1067mm

複線区間:なし(全線単線

電化区間:なし(全線非電化

運行概要

1939年(昭和14年)11月改正当時

運行本数:杵築 - 国東間11往復

所要時間:全線1時間11分 - 18分

1961年6月改正当時

運行本数:杵築 - 国東間16往復半(他、安岐 - 杵築間区間列車1本あり)

所要時間:全線1時間15 - 30分

歴史

国東鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
大分県東国東郡国東町鶴川1326-4[2]
設立1914年(大正3年)3月30日[2]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、バス事業、海上運送業[2]
代表者社長 安東常夫[2]
資本金1,450,000円(払込額)[2]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[2]
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地元有志により1912年(大正元年)に杵築-富来間の敷設申請がされた。1913年(大正2年)免許状が下付され、1914年(大正3年)国東鉄道株式会社を設立。浜本義顕が初代社長に就任。同年10月に浜本を含む社員3名が文書偽造行使詐欺横領の罪状で逮捕される事態が発生する[3]。彼らが持っていた株式は資本金の過半数に達しており、会社の意思決定もままならない状況に陥っていた。そのために申請中であった工事申請が不認可となり、1916年(大正5年)10月に失効することになる。その後再申請を行い、同年12月に再度免許を受けた。その後用地買収等の準備をおこない、1917年(大正6年)に工事に着手した。ところが第一次世界大戦のさなかで人夫が払底。くわえて建設資金も不足したため工事が遅れ開業の目処がたたなかった。やがて債権者の取立のため、軌条を売却し負債に当てる、社員を全員解雇し最低人数を再雇用するなど、会社は倒産寸前にあった[4][注釈 1]。軌間は、一度目、二度目共に762mmで敷設申請され、工事施行認可申請も同軌間で行われた[注釈 2]。しかし、軌道工事着手前の1918年(大正7年)に免許の終点富来町から徳山市を結ぶ連絡船事業を計画した背景から、設備の不十分さを理由に省線との連絡が可能な1067mmへ変更された [5] [6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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