大内裏
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平安京大内裏の位置平安京大内裏(平安宮)

大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。

平安京における宮城内の天皇在所である内裏が「大内裏」と呼ばれた。14世紀になると宮城全体を「大内裏」と称するようになり、この用例が一般化するようになる。平安京の北辺中央に位置する。
構造

東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域であった。

大内裏の周囲は築地の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重(とのえ)」という。

門は最も外側に「宮城門(きゅうじょうもん)」が位置し、内裏外郭の門を「宮門(きゅうもん)」、内郭の門を「閤門(こうもん)」という。

宮城十二門は次の通り。

宮城十二門の一覧(陽明門から時計回り)[1]画像位置弘仁式貞観式延喜式読みの転訛造進氏族通称
貞観式延喜式
安嘉門偉鑒門達智門上西門殷富門藻壁門談天門上東門陽明門待賢門郁芳門皇嘉門朱雀門美福門東面北県犬養門山門陽明門やまやうめい山氏兵衛御門
中山門建部門待賢門たけるべたいけん建部氏中御門
南達部門的門郁芳門いくはいくはう的氏大炊御門
南面東壬生門壬生門美福門みぶびふく壬生氏壬生御門
中大伴門大伴門朱雀門おおとも(大伴氏の名はすぐ北の応天門に残る)すざく大伴氏大伴門
西若犬養門若犬養門皇嘉門わかいぬかいくわうか若犬甘氏雅楽寮門
西面南玉手門玉手門談天門たまてだんてん玉手氏馬寮の門
中佐伯門佐伯門藻壁門さえきさうへき佐伯氏西中御門
北伊福部門伊福部門殷富門いふくべいんぷ伊福部氏西近衛門
北面西海犬養門海犬養門安嘉門あまいぬかいあんか海犬甘氏兵庫寮御門
中猪使門猪使門偉鑒門いかいいかん猪養氏不開(あかずの)門
東丹治比門丹比門達智門たぢひたっち丹治比氏多天井門

宮城門には、以上の十二門に加えて東面では陽明門のさらに北に上東門(じょうとうもん)、西面では殷富門のさらに北に上西門(じょうさいもん)があった。上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の土御門家藤原氏邸宅土御門殿はこの地名に由来している。上東門と上西門を除く12門が「宮城十二門」と総称される。
大内裏の主な施設

朝堂院:大内裏の正庁。政務や儀式の際に官吏が着座する場。

大極殿:朝堂院の正殿。天皇が政務や国家的儀式を行う場。


豊楽院:朝堂院の西にあり、節会の宴や外国使節歓待などが行われた。

左近衛府・右近衛府

内裏:天皇の居住の場。平城京では朝堂院の真北に位置していたが、平安京では東北に位置する。天皇の御所である紫宸殿や後宮がある。

紫宸殿:内裏の正殿。平安中期以降は大極殿に変わり、儀式、公務、謁見の間として使われた。

清涼殿:天皇の住居

後涼殿

仁寿殿相撲観戦、元服の儀式など天皇の私的な行事に使われる。

蔵人所詰所

春興殿小姓の詰所。

東宮

後宮

常寧殿皇后の住居

弘徽殿

承香殿

飛香舎

昭陽舎



宴の松原:内裏の西に位置する空閑地で、もとは内裏の建て替え用地だったと言われる。

太政官府

神祇官府

八省庁:中務式部治部民部兵部刑部大蔵宮内の各省。

令外官府

歴史

村上天皇の日記(村上天皇御記、天暦御記)によると、元は秦河勝の邸宅があった場所であるという。大内裏・内裏は10世紀後半以降、たびたびの焼失に見舞われた。最初の焼失は村上天皇天徳4年(960年)のことで、村上天皇御記で「人代以後」3度目の内裏焼失(難波宮[注釈 1]藤原宮[注釈 2]に次ぐと認識された)を平安遷都170年で招いた自らの不徳を嘆いた。村上天皇は冷泉院[注釈 3]里内裏とし、翌応和元年(961年)に大内裏が再建されると還幸した[2]。しかし、再建した大内裏も15年後、円融天皇の貞元元年(978年)に焼失してしまう[3]

以後、内裏の再建と焼亡は頻繁に起こり、円融天皇・一条天皇の時代にはそれぞれ再建と焼亡を1?3年間隔で3度ずつ繰り返した。三条天皇長和4年(1015年)には、9月20日に再建が成った内裏に1年ぶりに帰ったのにもかかわらず、わずか2か月後の11月17日に内裏が焼失する有様であった[4]。また、当初は1?2年程度で行われた再建も、一条天皇の寛弘2年(1005年)に発生した焼亡からの再建に6年を要したのを皮切りとして間隔が長くなる傾向が見られ、天皇の里内裏暮らしが常態化するようになった[5]
院政期

白河天皇永保2年(1082年)に焼亡した内裏は、康和2年(1100年)の再建までに足掛け19年を要した。このため、応徳3年(1086年)に譲位された堀河天皇は、堀河院という里内裏で践祚することとなった[6]。また堀河天皇は内裏再建後も里内裏で暮らした期間が長く、天皇在位期間の大半を里内裏で過ごした[7]。以後の院政期の天皇たちも同様で、鳥羽天皇は15年半の在位期間中合計7か月程度しか内裏で暮らしておらず[8]崇徳天皇は儀式などのために大内裏に4回赴き滞在したが、内裏には一度も足を踏み入れなかった[9]。天永3年(1112年)に鳥羽天皇の里内裏である高陽院が焼失した際には、本来の内裏が存在して使用可能であるにもかかわらず「次の里内裏」を選ぶ議論が行われた。『中右記』によれば、治天である白河法皇が「内裏の殿舎は甚だ広博なり」(内裏は広すぎる)という理由を挙げて幼少の天皇の内裏住まいに反対したといい、孫である天皇を法皇の御所である小六条殿に同居させて(それまで天皇と院の同居は異例であった)天皇を庇護・後見する院という政治体制を体現した[10]。院政を敷く治天は大内裏の修築・活用を嫌い、慈円の『愚管抄』には藤原忠通(慈円の父)が「捨てられた」大内裏の復興を提起したものの鳥羽院が退けた話が載せられている[11]。康和2年(1100年)再建の内裏は承久元年(1219年)まで119年間焼失を免れるが、天皇が日常的に暮らさなくなったために火を使わなくなったことが理由と考えられる[12]

大内裏全体は荒廃の一途をたどったが[13]、特定の建物は儀礼の場として維持された[14]。即位式を行う大極殿などで、即位式が行われる時期だけは修造・復興がなされた[15]。保元2年(1157年)、後白河天皇の近臣である信西(藤原通憲)が主導して大内裏再建が着手された。算術に明るい信西は自ら計算を行って各国に無理なく費用を分担させたといい、1年足らずで造営を終えた[16]


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