凡例大内 義興
大内義興像(山口県立山口博物館所蔵)
時代室町時代後期(戦国時代前期)
生誕文明9年2月15日(1477年3月29日)[注釈 1]
死没享禄元年12月20日(1529年1月29日)[2]
改名亀童丸(幼名)[3][4]→義興
別名通称:六郎[3]あるいは次郎[注釈 2]。
尊称:大内介
戒名凌雲寺殿傑叟義秀
墓所凌雲寺(山口県山口市)
官位従三位・左京大夫、周防権介[3]
幕府室町幕府周防・長門・石見・筑前・安芸・豊前・山城守護[3]、管領代
氏族多々良姓大内氏
父母父:大内政弘
母:今小路(賀茂神社社家鳥居大路氏の娘・畠山義統の養女)[注釈 3]
兄弟義興、高弘(隆弘)、女(宗像大宮司室)
妻正室:内藤弘矩の長女(東向殿)
子大宮姫(吉見隆頼、のち吉見正頼室)、義隆、女(大友義鑑正室)、女(細川持隆正室)、女(一条房冬室)、弘興、女(足利義維正室)
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大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。
父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる[注釈 4]。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。 文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる[注釈 5]。幼名は亀童丸[3][4]。長享2年1月30日(1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた[注釈 2][8]。 明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する[9]。ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される[10]。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった[11]。 明応3年(1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第15代当主となり[12]、暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495年)9月18日に父が死去すると[12]、名実ともに大内氏の当主となる。 ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の陶興明を明応4年(1495年)2月に殺害した。そして武護は「長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。それを信じた義興は明応4年(1495年)2月28日に兵を防府にさしむけて、弘矩と子の弘和
生涯
家督相続と内訌
九州進出と前将軍亡命大内義興像(山口市龍福寺資料館)
大内氏は長い間北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、勢力を拡大してきたが、大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことから義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれた。ところが、明応5年(1496年)に義右が急死すると、義右が対立していた父の政親が毒殺したという噂が流れ、実権を取り戻した政親は北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。ところが、政親の乗った船は遭難して事もあろうに大内氏の本拠地である長門国に辿り着いてしまう。義興は激怒して政親を捕らえて切腹させてしまった。事件の背景には大内氏の勢力拡大と北陸地方に亡命中の前将軍・足利義材との連携を恐れた細川政元の暗躍があったとみられる[14]。