凡例大内持世
画:栗原信充
大内 持世(おおうち もちよ)は、室町時代中期の武将、守護大名。周防・長門・豊前・筑前守護。大内氏の第12代当主。 第10代当主大内義弘の子で持盛、教祐の兄。第9代当主大内弘世(祖父)の子とする説もある。養子に教弘。官位は刑部少輔、修理大夫、正五位上、従四位下、従四位上。大内介。幼名は九郎。元服時に第4代将軍・足利義持より偏諱の授与を受けて持世と名乗る(「世」は弘世の1字により)。 永享3年(1431年)、叔父の第11代当主大内盛見が大友氏・少弐氏と戦って筑前で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎを巡って争いが起こった。生前、盛見は持世に家督と長門を除く所領を、持世の弟持盛に長門を継ぐように遺言していたとされる。ところが、別の記録では当初持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世(義弘・盛見の甥)に石見国迩摩郡と長門の一部を与える予定であったものが、室町幕府との交渉にあたっていた大内氏の重臣内藤智得
生涯
永享11年(1439年)九州遠征を終えた持世は山口に帰還するが、大内氏の勢力が急速に拡大していくことに不安を覚えた将軍・足利義教(義持の弟)は6月に持世が上洛命令に応じないことを理由に安芸国の所領を没収する[4]。持世は、永享12年(1440年)に足利義教に少弐嘉頼・教頼兄弟との和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させ、合わせて自身も上洛した。これは、少弐氏と同盟関係にある対馬の宗氏との関係悪化を恐れたとも言われているが、一方で持世が李氏朝鮮に対して対馬の割譲と引き換えに軍事同盟を結んで少弐・宗両氏を滅ぼそうと計画していたものの、突然の殺害によって立ち消えになったと言われている[注釈 3]。
当時、足利義教によって一色義貫・土岐持頼が殺害される事件があり、持世の身の上も危惧されたが、嘉吉元年(1441年)3月に持世が義教に反抗していた異母弟の義昭を匿っていた薩摩国の島津忠国を持世が説得してその首を差し出させたことが義教に評価されて信頼を得た[6]。だが、この年の6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いた時、持世も義教に従って臨席していたが、義教は満祐に暗殺され持世も重傷を負い、それがもとで7月28日に死去してしまった(嘉吉の乱)。享年48。跡を従弟(甥とも)で養嗣子の教弘が継いだ。
死に臨んで、赤松征伐こそ最大の供養であると遺言したという[7][8]。
法名は澄泉寺あるいは長泉寺殿道厳正弘大禅定門。墓所は山口県山口市の澄泉寺。
当主として有能なだけではなく、和歌にも優れた教養人であり、『新続古今和歌集』には多くの作品が遺されている。
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 『満済准后日記』永享3年9月3・24日、10月19・23日各条より[1]
^ 大内氏の当主は代々左京大夫を与えられていたが、持世は先々代義弘・先代盛見がともに戦没していることを理由に変更に申し入れ、幕府もその主張を受け入れた(『満済准后日記』永享4年4月4日条より)[2]。
^ 『朝鮮王朝実録』世宗26年(1444年)4月己酉条・6月乙酉条。なお、この計画について大内氏の家臣である廬羅加都老(豊前国野仲氏と推定)は朝鮮側の使者に対して、持世の急死で大内氏を継いだ大内教弘には知らされていなかったと述べ、朝鮮側もこの話を伝え聞いて驚き持世にこの話を勧めた表思温という向化倭(朝鮮に帰化していた日本人)を流罪にしている[5]。
出典[脚注の使い方]^ 藤井崇 2013, pp. 168?172.
^ 藤井崇 2013, p. 195.
^ 藤井崇 2013, pp. 177?178.
^ 藤井崇 2013, pp. 178, 192.
^ 須田牧子 2011, §大内氏の対朝関係の変遷.
^ 藤井崇 2013, pp. 178, 193.
^ 『建内記』。
^ 高坂好 1970, p. 232.