この項目では、神奈川県横浜市の地名について説明しています。その他の用法については「大倉山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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大倉山
町丁
横浜市大倉山記念館
大倉山(おおくらやま)は、 神奈川県横浜市港北区の町名。現行行政地名は大倉山一丁目から大倉山七丁目。2007年(平成19年)から2009年(平成21年)に渡る住居表示の実施により、それまでの太尾町(ふとおちょう)から大倉山に町名変更された。
一丁目には東急東横線大倉山駅が所在する。駅から北西側に登る大倉山公園にはプレヘレニック(前ギリシャ)様式[5]として設計された 大倉山記念館 が建ち、この地域のシンボルとなっている。 2007年(平成19年)11月まで東急東横線大倉山駅の所在地であった太尾町が、同月19日の住居表示実施により大倉山一丁目に変更され、以後2009年(平成21年)10月実施の六丁目・七丁目をもってすべて「大倉山」に変更された。それ以前も大倉山駅を中心とする地域では大倉山が通称となっており、主として駅北側と東側にあたる旧太尾町以外の地域 ― 大曽根・大曽根台・師岡町・大豆戸町等においても、施設名やマンション名の多くには「大倉山」が冠されている。また、港北区役所は大倉山駅東側の綱島街道に面しており同駅を最寄りとするが、住所は大豆戸町である。 一丁目は駅から東に向け綱島街道をまたぐ。二丁目から七丁目は大倉山駅西側に広がり、六丁目・七丁目は約2 kmに渡って鶴見川の東岸に面している。大倉山公園から太尾見晴らしの丘公園に至る丘陵の稜線は二丁目・六丁目と大曽根台の境となる。二丁目の大倉山公園は梅の名所として知られ、梅林には約30種200本が植樹されている。開花期には観梅会が催され、多くの花見客が訪れる。一丁目の大倉山駅は大倉山の中でも東寄りに位置しており、六丁目・七丁目の一部は横浜市営地下鉄新羽駅に、六丁目の一部は東横線綱島駅にむしろ近くなっている。 地勢は大倉山駅前の商店街通り(市道大倉山第201号線/太尾道・綱島街道から新羽橋に至る)の北東側が上記大倉山公園から連なる丘陵となっており、通りの南西側には平坦な区域が広がっている。かつてこの区域では鶴見川がしばしば氾濫を起こし、東横線を止める事もあったが[6]、1981年(昭和56年)の「鶴見川流域整備計画」策定に始まる総合治水対策により、冠水することは無くなっている[7]。 田園の広がる場所だったこともあり、その後の宅地開発では比較的余裕を持って区画されている。駅からやや離れた場所の多くでは戦後から高度成長期にかけ、まず工場や倉庫に変わり、現在それらの跡地には比較的規模の大きなマンションが建設されている。大倉山では駅に近い低層の住宅街とやや離れた高層マンション群という住区の構成が見られる[8]。 面積は以下の通りである[2]。 丁目面積(km2) 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば大倉山三丁目37-5の地点で483,000円/m2[9]、大倉山七丁目4-14の地点で297,000円/m2[10]となっている。 地名は実業家であり、東洋大学学長も務めた大倉邦彦が1932年(昭和7年)、現在の大倉山公園に創設した大倉精神文化研究所(その後建物を横浜市に移管し大倉山記念館として運営)に由来する。研究所創設以前、この地の丘は、観音山と呼ばれていたが、研究所創設に伴って通称大倉山と呼ばれるようになった。1926年(大正15年)2月に東京横浜電鉄(現東急電鉄)の神奈川線(丸子多摩川 - 神奈川)が開通、開業当初の駅名は「太尾」となったが、1932年(昭和7年)3月の渋谷 - 桜木町間の東横線全線開通時には研究所創設、梅園の観光開発に合わせ、「大倉山」へと改称された。邦彦自身は佐賀県の士族・江原家の出身であり、東京日本橋の紙問屋であった大倉洋紙店(現新生紙パルプ商事)に入社後、創業家に婿入りした人物である。いわば昭和に入ってから東京日本橋を発した氏名が由来となった町名であり、14世紀の記録にも残る「太尾」の名が名実ともに消滅する町名変更には賛否両論が交わされた。横浜市は住民参加による異例の公聴会を開き、市議会はその意見を集約・審議を経た後、町名変更を可決した。公聴会以前に行われた住民アンケートの結果、約65 %が賛成であったが反対も30 %を越えていた[11][12]。 縄文時代には海岸線がこの辺りまで来ており、大倉山が岬のように海へ突き出していた。
概要
面積
大倉山一丁目0.186
大倉山二丁目0.310
大倉山三丁目0.245
大倉山四丁目0.175
大倉山五丁目0.200
大倉山六丁目0.337
大倉山七丁目0.370
計1.823
地価
沿革
町名変更の過程
旧町名(太尾町)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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