大倉喜八郎
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おおくら きはちろう
大倉 喜八郎

生誕1837年10月23日
日本越後国蒲原郡新発田町
(現新潟県新発田市
死没 (1928-04-22) 1928年4月22日(90歳没)
日本東京市赤坂区
(現東京都港区
国籍 日本
職業実業家
配偶者持田徳子
子供喜七郎 ほか
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大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日1837年10月23日) - 昭和3年(1928年4月22日)は、日本武器商人実業家明治大正期に貿易建設化学製鉄繊維食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館帝国ホテル帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。
生涯
生い立ち新発田市内旧下町に立つ大倉喜八郎生誕之碑(新潟県新発田市)

天保8年(1837年9月24日越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として生まれる[1]。幼名は鶴吉。23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種砂糖などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。自叙伝『大倉鶴彦翁』などでは、"大倉家は累代の大名主で、苗字帯刀を許され、また下座御免[2]の格式ある家柄であったとの旨が記されている[3]。史実として、大倉家が新発田藩の大名主で苗字を名乗れた高い身分であったことは事実とされる[3]。喜八郎は家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。

嘉永4年(1851年)、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。
鰹節商・乾物商時代

江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政4年(1857年)には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業。

横浜で黒船を見たことを契機に乾物店を慶応2年(1866年)に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応3年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業[4]
鉄砲商時代

神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出した[5]

店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入した。不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治4年(1871年)7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。
御用達商人としての活躍

大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。これ以後、明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達として活躍。日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立した。
実業家として大倉喜八郎、1908年頃大倉製糸場の跡地に立つ大倉喜八郎の胸像(新潟県新発田市本町県立新発田病院)東京経済大学100周年記念館内大倉喜八郎の胸像(東京都国分寺市南町)東公園内に立つ大倉翁墓銘(新潟県新発田市諏訪町東公園)赤石岳麓の椹島にある大倉喜八郎碑

明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立し、建設工事に着工[6]。同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設し、海外貿易にも携わるようになる。欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、洋服裁縫店を日本橋本町に開設した[7]。明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負う。

明治7年(1874年)の台湾出兵の際には、陸軍兵3千人分の物資を運ぶ人夫や職工など500名を手配する事となり、薩摩の御用達だった田中長兵衛と長州の御用達だった有馬屋清右衛門に半数ずつ準備するよう依頼し、当時疫病の蔓延していた台湾へ自ら率先して渡った。

明治8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。明治9年(1876年)には大久保利通ロンドンで会見した折に要請・協議した、被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立(払い下げは遅れた)。

明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。1878年明治11年)には東京府会議員に選出された[8]。明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈矢島作郎蜂須賀茂韶とともに設立し、宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけた。


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