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大倉和親
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)初代社長[1]。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた[2]。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する[2][3]。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社[4][3]。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る[5][4]。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任[5][4][6][3]。日本陶器株式会社に移行した大正6年、同社社長に就任したほか[7]、同年に東洋陶器、日本碍子各初代社長となった[4][8][9]。大正13年に伊奈製陶を設立し、昭和11年には日本特殊陶業の設立に参画したほか、森村組、森村商事(旧)、日本玩具などの取締役を務めた[4]。 1955年(昭和30年)7月1日に79歳で死去した。
経歴
親族
父・大倉孫兵衛
母・なつ(1847年生)- 千葉県・鈴木与四カの長女。[2]
妻・しげ(1883年生)- 明治製糖会長の小川?吉の二女。[2][10]
子に長女美代(1907年生)、二女治代(1908年生)、三女鶴江(1909年生)、四女松代(1909年生、小原謙太郎妻)、長男幸和(1910年生)、五女亀久代(1914年生、吉村成一妻)、次男譲次(1918年生)。[5][11][12]
脚注^ 第2章 日本陶器の創立とディナーセットの完成 近代陶磁器産業の出発と「一業一社」 1. 日本陶器合名会社の創立 大倉和親が代表社員に
^ a b c d ⇒大倉和親『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
^ a b c 日本陶器会社長 大倉和親『名古屋百人物評論. 続』手島益雄 著 (日本電報通信社名古屋支局, 1915)