大伴書持
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例大伴書持
時代奈良時代
生誕不明
死没天平18年(746年
主君聖武天皇
氏族大伴宿禰
父母父:大伴旅人
兄弟家持、書持、留女之女郎、高多麻呂
テンプレートを表示

大伴 書持(おおとも の ふみもち)は、奈良時代貴族歌人宿禰大伴旅人の子で、大伴家持の弟。
目次

1 経歴

2 歌風

3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

経歴

史書などには事績は見られず(よって、官位も不明)、『万葉集』に収められた歌で、その生涯を知ることができる。

最古の和歌は、天平10年8月20日(738年10月7日)に、橘奈良麻呂が集宴を開催した時のものである。あしひきの 山のもみち葉 今夜(こよひ)もか 浮かび行(ゆ)くらむ 山川(やまがは)の瀬に((あしひきの)山の紅葉は この夜中にも 散っては浮かんで行っているだろうなあ 山川の瀬を)[1]

翌年には、兄家持の妾の死を悼む和歌に唱和して、歌を詠んでいる。(天平)十一年己卯(きぼう)の夏六月(739年)、大伴宿禰家持、亡(す)ぎにし妾(をみなめ)を悲傷(かなし)びて作る歌一首

今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜(よ)を寝(ね)む

(これからは 秋風も寒く 吹くだろうに どんなにしてひとり 秋の夜長を寝たものだろうか)

弟(おと)大伴宿禰書持即(すなは)ち和(こた)ふる歌一首

長き夜(よ)を ひとりや寝(ね)むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに(長い夜を ひとりで寝るかと あなたが言うので 亡くなった人が 思い出されます)[2]

また、天平12年12月9日(740年12月31日)には、天平2年(730年)に大宰帥であった父、旅人の梅の花の宴の歌に想像で追和したという6首を詠んでいる[3]、天平13年4月2日(741年5月20日)には、恭仁京に滞在中の兄家持あてに奈良の邸宅から霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌を贈っている[4]

ほかにも、ほととぎすを詠んだ歌2首[5]や、紅葉を詠んだ歌[6]がある。

天平18年9月25日(746年)に、兄の家持が「長逝せる弟を哀傷(かなし)ぶる歌一首、并(あわ)せて短歌」を詠んでいるので、この年に亡くなったものと思われる。その長歌の但し書きによるとこのひととなり、花草花樹を好愛(め)でて、多く寝院(しんゐん)の庭(には)に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花薫(にほ)へる庭」といふ

とあり、佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ

と記されている[7]

つづく反歌は、以下のようなものである。ま幸(さき)くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも

(達者でと 言っておいたのに 白雲となって 立ちたなびいたと 聞くと悲しい)

かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを(こうなると かねて知っていたら 越の海の 荒磯の波でも 見せてやればよかった)[8]

当時、家持は越中守であり、弟の臨終に立ち会うことはできなかった。
歌風

この節の加筆が望まれています。

脚注

[ヘルプ]
^ 『万葉集』巻第八、1587番
^ 『万葉集』巻第三、462番・463番
^ 『万葉集』巻第十七、3901番 - 3906番。
^ 『万葉集』巻第十七、3909番・3910番
^ 『万葉集』巻第八、1480番・1481番
^ 『万葉集』巻第八、1587番
^ 『万葉集』巻第十七、3957番
^ 『万葉集』巻第十七、3958番・3959番

参考文献

『萬葉集』(一)・(三)・(五)完訳日本の古典3・4、
小学館、1982年、1984年、1986年

関連項目

大伴家持

万葉集

この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。

この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますプロジェクト:人物伝Portal:人物伝)。

この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますプロジェクト:ライトノベルPortal:文学)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9960 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef