凡例大伴書持
時代奈良時代
生誕不明
死没天平18年(746年)
主君聖武天皇
氏族大伴宿禰
父母父:大伴旅人
兄弟家持、書持、留女之女郎、高多麻呂
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大伴 書持(おおとも の ふみもち)は、奈良時代の貴族・歌人。姓は宿禰。大伴旅人の子で、大伴家持の弟。 史書などには事績は見られず(よって、官位も不明)、『万葉集』に収められた歌で、その生涯を知ることができる。 最古の和歌は、天平10年8月20日(738年10月7日)に、橘奈良麻呂が集宴を開催した時のものである。あしひきの 山のもみち葉 今夜(こよひ)もか 浮かび行(ゆ)くらむ 山川(やまがは)の瀬に((あしひきの)山の紅葉は この夜中にも 散っては浮かんで行っているだろうなあ 山川の瀬を)[1] 翌年には、兄家持の妾の死を悼む和歌に唱和して、歌を詠んでいる。(天平)十一年己卯(きぼう)の夏六月(739年)、大伴宿禰家持、亡(す)ぎにし妾(をみなめ)を悲傷(かなし)びて作る歌一首 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜(よ)を寝(ね)む (これからは 秋風も寒く 吹くだろうに どんなにしてひとり 秋の夜長を寝たものだろうか) 弟(おと)大伴宿禰書持即(すなは)ち和(こた)ふる歌一首 長き夜(よ)を ひとりや寝(ね)むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに(長い夜を ひとりで寝るかと あなたが言うので 亡くなった人が 思い出されます)[2] また、天平12年12月9日(740年12月31日)には、天平2年(730年)に大宰帥であった父、旅人の梅の花の宴の歌に想像で追和したという6首を詠んでいる[3]、天平13年4月2日(741年5月20日)には、恭仁京に滞在中の兄家持あてに奈良の邸宅から霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌を贈っている[4]。 ほかにも、ほととぎすを詠んだ歌2首[5]や、紅葉を詠んだ歌[6]がある。 天平18年9月25日(746年)に、兄の家持が「長逝せる弟を哀傷(かなし)ぶる歌一首、并(あわ)せて短歌」を詠んでいるので、この年に亡くなったものと思われる。その長歌の但し書きによるとこのひととなり、花草花樹を好愛(め)でて、多く寝院(しんゐん)の庭(には)に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花薫(にほ)へる庭」といふ とあり、佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ と記されている[7]。 つづく反歌は、以下のようなものである。ま幸(さき)くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも (達者でと 言っておいたのに 白雲となって 立ちたなびいたと 聞くと悲しい) かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを(こうなると かねて知っていたら 越の海の 荒磯の波でも 見せてやればよかった)[8] 当時、家持は越中守であり、弟の臨終に立ち会うことはできなかった。 [ヘルプ]
目次
1 経歴
2 歌風
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
経歴
歌風が望まれています。
脚注
^ 『万葉集』巻第八、1587番
^ 『万葉集』巻第三、462番・463番
^ 『万葉集』巻第十七、3901番 - 3906番。
^ 『万葉集』巻第十七、3909番・3910番
^ 『万葉集』巻第八、1480番・1481番
^ 『万葉集』巻第八、1587番
^ 『万葉集』巻第十七、3957番
^ 『万葉集』巻第十七、3958番・3959番
参考文献
『萬葉集』(一)・(三)・(五)完訳日本の古典3・4、小学館、1982年、1984年、1986年
関連項目
大伴家持
万葉集
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