大伴家持
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例大伴 家持
大伴家持(狩野探幽『三十六歌仙額』)
時代奈良時代
生誕養老2年(718年)頃[注釈 1]
死没延暦4年8月28日785年10月5日
官位従三位中納言
主君聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族大伴氏
父母父:大伴旅人、母:丹比郎女
兄弟家持、書持、高多麻呂、留女之女郎
妻大伴坂上大嬢
永主
テンプレートを表示

大伴 家持(おおとも の やかもち)は、奈良時代公卿歌人大納言大伴旅人の子。官位従三位中納言三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。

万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏大和朝廷以来の武門の家であり、祖父、安麻呂、父、旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。
経歴

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙爵し、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。

天平勝宝3年(751年少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9歳(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7歳(755年難波防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして、大伴古麻呂大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。

天平宝字6年(762年信部大輔に任ぜられ京官に復すが、淳仁朝で権勢を振るっていた太師藤原仲麻呂に対して、藤原宿奈麻呂石上宅嗣佐伯今毛人の3人とともに暗殺計画を立案する。しかし密告により計画は露見し、天平宝字7年(763年)に4人は捕えられてしまう。ここで藤原宿奈麻呂が単独犯行を主張したことから、家持は罪に問われなかったものの[1]、翌天平宝字8年(764年)正月に薩摩守左遷される報復人事を受けた。

九州に下向していたためか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。その後、神護景雲元年(767年大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている。

神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると左中弁中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下となる。光仁朝では式部大輔左京大夫衛門督と京師の要職や上総伊勢大国の国守を歴任する一方で、宝亀2年(771年従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年正四位下と順調に昇進する。宝亀11年(780年参議に任ぜられて公卿に列し、翌天応元年(781年)には従三位に叙せられた。

桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。しかし、早くも同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)には先任の参議であった藤原小黒麻呂藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子早良親王春宮大夫も兼ねた。さらに、延暦3年(784年)には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる。翌延暦4年(785年)4月には陸奥国に仮設置していた多賀階上の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている[2]

同年8月28日薨去。最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した[3]、あるいは遙任の官として在京していたとの両説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。

没した直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。

歴史学者の長谷部将司は、種継の暗殺は家持の死から1か月後の事件であるにもかかわらず、まだ埋葬が済んでいないのは長岡京から離れた土地で死去したから、すなわち陸奥国に滞在中に死去したと断定する(長岡京に在京中に死去したならば、種継暗殺事件前に埋葬が済んでいる筈である)。同時に藤原種継暗殺事件への関与を疑問視している[4]

子の永主隠岐国への流罪となった。家持は没後20年以上経過した延暦25年に恩赦を受けて従三位に復している。
歌人として百人一首かるた読み札「中納言家持」

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七?二十は、私家集の観もある。なお、473首のうち223首が越中国在住中の歌である[5]

『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef