大仙陵古墳
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大仙陵古墳 / 大山古墳

大仙陵古墳の空中写真(2007年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
別名大仙古墳/仁徳天皇陵古墳など
所属百舌鳥古墳群
所在地大阪府堺市堺区大仙町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度33分50.15秒 東経135度29分14.31秒 / 北緯34.5639306度 東経135.4873083度 / 34.5639306; 135.4873083座標: 北緯34度33分50.15秒 東経135度29分14.31秒 / 北緯34.5639306度 東経135.4873083度 / 34.5639306; 135.4873083
形状前方後円墳
規模墳丘長525m
高さ39.8m(後円部)
埋葬施設後円部:不明
(内部に長持型石棺
前方部中段:竪穴式石室
(内部に長持型石棺)
出土品埴輪須恵器、(伝)甲冑・環刀
築造時期5世紀前期-中期(441‐460年頃[1][2])
被葬者(宮内庁治定)第16代仁徳天皇
陵墓宮内庁治定「百舌鳥耳原中陵」
特記事項日本全国第1位の規模[3]
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}大仙陵古墳 大阪府内の位置
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}オープンストリートマップに大仙陵古墳の地図があります。墳丘全景(左に後円部、右に前方部)堺市役所21F展望ロビーより。仁徳天皇百舌鳥耳原中陵 拝所

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん、大仙古墳)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳天皇陵。形状は前方後円墳百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、日本最大の古墳にして、世界最大級の墳墓である。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇陵墓に治定されている。仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)や仁徳陵古墳とも言う[4][5]

ユネスコ2019年7月6日、大仙陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産として登録することを決定した[6]
古墳の概要
築造時期

採集されている円筒埴輪須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
治定について

記紀』・『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇履中天皇反正天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述(#延喜式)する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。
規模

大仙陵古墳の規模について、堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している[7]。ここでは「 -> 」の後に 2018年4月12日宮内庁の三次元測量調査による修正値を記載する[8][9]

古墳最大長:840メートル

古墳最大幅:654メートル

墳丘長:486メートル -> 525.1メートル(一説には522メートル)

墳丘基底部の面積:103,410平方メートル -> 121,380平方メートル

後円部 - 3段築成

直径:249メートル -> 286.33メートル

高さ:35.8メートル -> 39.8メートル


前方部 - 3段築成

幅:307メートル -> 347メートル

長さ:237メートル -> 257メートル

高さ:33.9メートル -> 37.9メートル

墳丘長は、第2位とされる大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の425メートルを上回り、日本最大である。墳丘本体の体積はコンピューター計算により164万立方メートルと、水面上の体積だけで誉田御廟山古墳の143万立方メートルを超えていることがわかった。525.1mと水中4mからは40メートル以上も全長が伸びて、水中からの体積は210万立方メートルにもおよび羽曳野市誉田御廟山古墳(応神天皇陵)よりも体積もさらに大きくなる。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の体積143万立方メートルはカラの濠からの体積で変化はしない。底面積・表面積共に121,380平方メートルは誉田御廟山古墳よりもはるかに広くなる。宮内庁の調査は重要で考慮しておく必要がある。なお一重濠の下にはヘドロが水の2倍以上も堆積していて墳丘の裾はヘドロの中に食い込んでいて600m以上ある可能性もある。体積は300万立方メートル以上と秦の始皇帝陵を超える体積の可能性もある。
墳形・周濠

前方部を南に向けた前方後円墳で、前方部と後円部のつなぎ目のくびれ部には左右に造出しを設けている。墳丘は3段からなるが墳丘には多くの谷があり、宮内庁所蔵の実測図でも墳丘の等高線の乱れが著しい。この谷の成因については自然崩壊のほかに、墳丘が未完成だったという説も提起されている[10]

現在墳丘は三重の周濠で囲まれているが、江戸時代元禄年間に当時の堺奉行所の指示で最外部の濠は一部を除いて地に開墾され、ほぼ二重濠のような見かけになっていた[11]。江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠は元々は三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年明治29年)に掘り直し、復元されたものである[12]。明治政府によって行われた再掘削工事によって濠が築造時通りに復元されたかは疑問が残る[13]

周濠は内側から第1堤、第2堤と呼ばれており、2021年には第1堤の幅約2メートルの上端両側に、直径30?35センチの円筒埴輪を繋げて並べた列が発見され、この2列が第1堤を1周していたと推定された。また貴人のかぶる笠を模した木製品を立てた跡らしきものも発見された。5世紀前半から中頃の築造と見られている[14]
外表施設

最近の発掘調査によると、前方後円墳の築造時には墳丘の斜面は葺石で覆われ墳頂部には円筒埴輪が並べられていたとされ、五色塚古墳などそのような外観で復元される古墳が多い[15]。大仙陵古墳で明治維新の直前から現在まで研究者などの立ち入りが全く認められていないため外表施設について正確な情報はないが、上記の三重濠掘削の際に出土したと言われる女子人物頭部や馬の頭(以上は宮内庁所蔵)や、東側の造出しから多数の大の破片が出土したとされる[16][17]


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