大井氏
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大井氏(おおいし)

紀氏大井実春など。

信濃源氏小笠原氏の庶流。信濃守護代も勤めた。

甲斐源氏武田氏の庶流。

武蔵七党の1つである村山党の一族。

大井氏(紀氏)

紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に、品川氏春日部氏堤氏潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。

大井実春寿永3年(1184年3月伊勢国平氏残党(志田義広平田家継(平田入道)、平信兼)の征討に参加する。元暦2年(1184年1月源義経拝賀の椀飯を勤める。文治元年(1185年11月、伊勢国桑名郡香取五ヶ郷(三重県桑名市多度町香取)を所領とする。元久元年(1204年12月、本貫である荏原郡大井郷と隣接する大杜郷を所領とする。その後も大井氏は、品川氏と共に源頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇されていた。また大井実春は怪力の持ち主で、源頼朝の御前で催される相撲の選手でもあった。
参考文献


落合義明『中世東国の「都市的な場」と武士』 (2005年ISBN 978-4634523418

野口実『東国武士と京都』 (2015年ISBN 978-4886217110

大井氏(小笠原氏族)

小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井荘長野県佐久市岩村田)の地頭となって土着したのが起源とされる。同時に伊賀国にも所領を得た。朝光の子・朝氏は弘安3年(1280年)、亀山上皇の御前で流鏑馬を披露している(『勘仲記』)。保科

弘安2年(1279年)、同じ佐久郡内の伴野荘一遍が訪問すると、光長が自邸に迎え入れている(『絹本著色一遍上人絵伝』)。弘安8年(1285年)朝光の孫・行光の代に霜月騒動が起こり、伴野荘の地頭で小笠原家惣領職・伴野氏が没落。大井氏はこれを契機に佐久郡内に勢力を拡大していったとされる。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮の造営費用が全国の御家人に求められると、信濃国に住む大井太郎跡は、20貫文を納めた[2]

南北朝の動乱期は、本家小笠原氏に従って足利方として活躍。中先代の乱足利尊氏北条時行から鎌倉を奪回し、そのまま後醍醐天皇から離反すると、忠房親王を大将として東山道を進軍する南朝方の軍(官軍)により、大井城は激しい攻撃を受ける。小笠原一族や村上氏など信濃の足利方の支援を受けるも、この戦いで大井城は落城の憂き目を見る。だが東海道を進んだ新田義貞軍が箱根・竹ノ下の戦いで大敗したことで、東山道軍も京都に撤退した。大井氏は大井城を復旧させると共に、以後も北朝方の有力将として信濃の北条残党や南朝方と戦いを続ける。この時代、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が信濃守護小笠原政長守護代を勤め、正平5年(1350年)には足利直義の命令で信濃国太田荘大倉郷の地頭職を巡る争いを調停するなど、勢力を拡大させていった。

しかし光長の子・大井光矩は、応永7年(1400年)の大塔合戦では信濃守護の小笠原長秀に加勢せず、戦いに敗れて塩崎城に篭った長秀の救出のみにしか動かなかった。その後、光矩の子・大井持光は、近隣の芦田氏依田氏)や平賀氏などを下し勢力を広げ、永享10年(1438年)の永享の乱自害した鎌倉公方足利持氏の遺児・永寿王(後の古河公方足利成氏)を庇護し、嘉吉元年(1441年)の結城合戦では結城氏朝に永寿王を送り届けるなど、地理的に近い関東の情勢と関係を深めて行く。


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