大久保博元
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大久保 博元東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代
(2015年、東京ドームにて)
基本情報
国籍 日本
出身地茨城県東茨城郡大洗町
生年月日 (1967-02-01) 1967年2月1日(57歳)
身長
体重180 cm
108 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1984年 ドラフト1位
初出場1985年7月30日
最終出場1995年6月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


茨城県立水戸商業高等学校

西武ライオンズ (1985, 1987 - 1992)

読売ジャイアンツ (1992 - 1995)

監督・コーチ歴


埼玉西武ライオンズ (2008, 2010)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2012 - 2015)

読売ジャイアンツ (2023)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

デーブ おおくぼ
デーブ 大久保
本名大久保 博元
生年月日 (1967-02-01) 1967年2月1日(57歳)
出生地 日本
茨城県東茨城郡大洗町
国籍 日本
身長180cm
職業元プロ野球選手野球解説者タレントプロゴルファー実業家
活動期間1996年 - 2007年2016年 -
事務所デーブカンパニー(1996年 - )
ソニー・ミュージックアーティスツ(2016年 - 2022年3月)[1]
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デーブ大久保
人物
生誕1967年2月1日
国籍 日本
職業野球解説者
YouTube
チャンネル

デーブ大久保チャンネル

活動期間2020年6月5日 -
ジャンルプロ野球
登録者数36.8万人
総再生回数285,071,133回
事務所(MCN)デーブカンパニー有限会社
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-06-00002023年10月6日時点。
テンプレートを表示

大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1967年昭和42年〉2月1日 - )は、茨城県東茨城郡大洗町出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)、野球解説者野球評論家YouTuberプロゴルファー実業家

愛称はデーブ、ブーちゃん。現役引退後はデーブ大久保名義で活動しており、埼玉西武ライオンズコーチ時代は登録名としても使用した。第59代巨人4番打者、第5代東北楽天ゴールデンイーグルス監督。東京都港区新橋居酒屋「肉蔵でーぶ」オーナー、東京/横浜「デーブ ベースボールアカデミー」主宰者。
経歴
プロ入りまで

水戸商業では2年次の1983年夏、捕手として出場した茨城大会で決勝に進出するが、エースの加茂川重治を擁する茨城東高に前年秋の県大会準決勝に続いて敗退。

3年次の1984年夏も茨城大会で敗れ、甲子園には出場できなかったものの高校通算52本塁打を記録。

高校時代に、先輩の彼女に性行為を強要した話を、トークバラエティ番組『ろみひー』(日本テレビ)で暴露[2]
西武時代

1984年度ドラフト会議にて広沢克己のクジを外した西武ライオンズからの1位指名で入団[3]。契約金は4,500万円で[4]1985年の卒業式では母校に100万円を小切手で寄付した[5]

入団当時から長打力が注目され、1986年の1年間は1A・サンノゼ・ビーズに野球留学のため渡米した。引率を担当した和田博実二軍打撃コーチから、太っている体型から「デーブ」というあだ名を付けられた。また当時の西武球団の慣習(2年目の選手が新人の教育係となる)から、渡米前には1年後輩の清原和博の教育係を務めていた。一塁手として起用の構想もあったが清原の活躍で立ち消えとなり、一時は三塁手にも挑戦した。

帰国した1987年にはジュニアオールスターゲームでMVPを獲得。1989年には当時イースタン記録となる24本塁打・70打点でイースタン二冠王に輝く[6]。だが当時の正捕手には伊東勤が定着しており森祇晶監督からはリードを評価されず、ほとんどが代打や指名打者ばかりで捕手としての先発出場はなかった。

1988年以降はタイラー・リー・バンバークレオオレステス・デストラーデの加入で、指名打者での出場もなくなり二軍生活が続いた。
巨人時代

1992年5月11日中尾孝義との交換トレード読売ジャイアンツへ移籍。西武では活躍の場がない大久保のために、同じ茨城県出身である球団管理部長の根本陸夫が主導したトレードだった。

巨人ではいきなり正捕手として起用され、6月には月間MVPを獲得し、オールスター前までに打率.300・12本塁打を放つ活躍を見せた。大久保が本塁打を打った試合は必ず勝利していたため、「大久保が打てば負けない」というジンクスまで生まれ、藤田元司監督の進言もあって球団から前半戦終了時に2000万円のボーナスを得た。しかし、2000万円という金額については藤田も想定外であり、「大久保だけボーンと2000万円…。これはみんな、雰囲気悪くなりますよ。チームじゅうで、雰囲気が悪いんです。いや、これには、まいりました」[7]とのちに述べている。大久保も、オールスター後は大きく失速し、チームが優勝を争った終盤戦には村田真一に正捕手の座を奪われた。

長嶋茂雄が監督に就任した1993年は開幕から村田との併用で起用されていた。ハイペースで本塁打を量産し、5月27日ヤクルト戦(神宮)ではプロ入り初盗塁を決める。しかし、その試合で高津臣吾から死球を受け、左手首を骨折し9月まで長期にわたり戦線離脱を余儀なくされた。復帰後となる10月2日翌3日広島戦(東京D)では初めて4番・一塁手で先発出場し、結果は7打数1安打1打点で、2日に秋村謙宏から放ったソロ本塁打で記録したものであった。同年は巨人の日本人選手では原辰徳松井秀喜に次ぐ10本塁打を放つも、本塁打以外の打点が2しかなかったため、16打点であった。オフに年俸3,100万円で契約更改した[8]

1994年は、劇的なサヨナラ本塁打を複数放つなど打撃は好調だったが、リードやキャッチングの面から再び村田が正捕手となり、二番手捕手や代打要員にとしての起用が主だった。9月10日の広島戦(東京D)で3-11と大きくリードされた6回1死で打席に立った大久保は、2球目の直後に後ろを振り向くと、西山秀二と球審へ怒りの形相でクレームをつけ始めた。ネクストサークルの福王昭仁と一塁ベースコーチの中畑清一軍打撃コーチが慌てて駆けつけて仲裁に入ったが、これは西山の故意死球をほのめかすささやきに大久保が過剰反応したものであった。プレー再開後も怒りが冷めやらぬ大久保は、1-1から望月秀通の直球を思い切り空振りし、フルカウントから外角低めに落ちる球をまたも空振りし三振に倒れた。まんまと広島バッテリーの術中にはまった悔しさがさらなる怒りを呼んだのか、直後の大久保はバットを2度にわたり、地面に叩きつけ、荒々しく放り投げた。ヘルメットもグラウンドに投げ捨て、大暴れするなど大人げない行動にスタンドは唖然。しかし「みんなスカート履いて野球やってるよ」と、闘志を前面に出さない選手らに不満を抱いていた長嶋監督は、逆に大久保の振る舞いを評価した[9][10]9月17日阪神戦(東京D)では、中西清起からサヨナラ2ラン本塁打を放った際に大口を開けて泣いている。8月下旬から2勝12敗と低迷していたチームは再び盛り返し、中日との10.8決戦を制したことで4年ぶりのリーグ優勝を果たした[9]。古巣・西武との日本シリーズでは、10月26日の第4戦(西武球場)9回2死で杉山賢人から同点本塁打を放ち、日本一に貢献。

1995年は1994年オフからの契約更改交渉が長引き、自費キャンプとなったうえ、サインをしたのは2月のキャンプ初日だった。2年ぶりに開幕戦捕手として出場し、斎藤雅樹の2年連続開幕戦完封勝利に貢献。しかし、4月26日の広島戦(広島市民)で空振りした際にバランスを崩し尻もちをついて足首を骨折。NPB球団の所属選手からなる外国人選抜チームと日本人選抜チームが対戦した「阪神大震災復興支援チャリティードリームゲーム」(7月24日福岡ドーム)では、外国人側に捕手がいなかったため、あだ名が外国人的であること、また海外留学経験から英語が話せるという理由で、「デーブ」の登録名で外国人チームとして参加。もう1人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場している。

同年28歳で現役を引退。当時は故障(骨折)による引退と思われていたが、コーチとの確執が原因であったことを後年明かしている[11]
引退後
解説者・タレント・プロゴルファー活動「肉蔵でーぶ」の外観

引退後の1996年、個人事務所「デーブカンパニー」を設立。フジテレビ(2000年 - 2007年)・ニッポン放送(1996年 - 2007年)野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家(2000年 - 2007年)となる傍らで、「デーブ大久保」名義でタレント活動を始めた。

1999年から『週刊パーゴルフ』で始めた連載をきっかけに、プロゴルファーとしても活動する[6]


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